詩とイメージ(表象一般、画像とかイラストとか)に共通するのは、意味の前に「わかる」経験とでもいうようなものが先行するところじゃないかと思う。後でその「わかる」に意味をつけることとなるわけだが、勿論どうしようもないギャップを抱え込んでしまうことになる。「わかる」=「直観」。スピードがとても速い。往復がない。この直観はカントの感性的直観ではない。装置としての感性の限定からははみでている。知覚に意味が侵食しうるのかどうか、例えばフィードバックなどがあってもいいように感じるが、純粋知覚の想定や、知覚のメカニズム、科学一般による因果説明は、「私」の「経験」を追えない。こういう身体問題の二元論に基づくパラドキシカルな状況はずっと友だちだ。

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「わかる」=「直観」の機制。それは無意識によるものだ、記憶の蓄積だ、意味の蓄積だ、といったような説明はなるほどもっともらしい。でもこの因果にすんなり飛びつけないのは、結果から原因を構成しているのではないか、結果、つまり「わかる」経験の方が先で、その後で原因を遡及的にこじつけているとしても何ら問題はないのではないか、という懐疑があるからだ。むしろ、まず「わかる」経験があって、そこからその原因、無意識の領野、記憶、意味の蓄積等を構成する方が、面白い。面白いから何だ、という話ではある。
「好き」とこの「わかる」は瞬発力など性質的に似ているが、やはり違うように思う。いわゆる「わかる」には色々種類があるようで興味深い。「わかる」までは「わからない」ということの深遠。