一つ思うのは、僕は、言うならハロプロ事象の観察者みたいなものではないか、ということ。そういう意味で一つ、自分がハロヲタではないと客観化できる。ハロヲタに観察者的側面がないということではない。ハロヲタの同一性を、ハロヲタハロヲタであることを、その行為から帰納的に確保する事ができるとして、ハロプロ事象の観察はまさにその一つのハロヲタ行為である、と考えられるだろうから。
僕は「応援もしない」し、「推し」もいない。しかしそれら両概念は、ヲタ間のコミュニケートの概念でもあるから、単純に切り捨てられるとは思わない。「応援しない」「推し」がいない、と言ってのけることは簡単ではない、ということです。単純に言うと、それは僕がハロヲタの、そしてハロプロ事象の内側にやはりいるから。
 
自分はハロヲタではないという自己客観化が何故自分にとって大事に思えるのかわからない。大げさに、類概念と個概念の共犯関係に対するアプローチ、その実践でありうると思ってるのかも、と思う。概念は一番優しく言っても「鈍臭い」が、それで「概念」自体を責めるのはお門違いというか、本末転倒というか。はさみを入れたら、紙が切れて、それに対してはさみに怒る、というのは、とても滑稽である。
 
ハロヲタから見れば、僕はまぁハロヲタかも、中途半端なそれ、微妙なそれ、何が楽しいの?なそれ、に映るであろうし、非ハロヲタから見れば、僕はやはりハロヲタに見えるだろう、という自意識の記述。
 

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矛盾になりうるかどうか。僕は彼女たちを友だちだと言い、自分は観察者であるとも思う。僕は矛盾が好きなので(これは語弊がある)、別に構わないのだけど、構わなくない場合もありうると想像する。
そういえば、それは矛盾だ、といって責められる場合は、矛盾が、その認識が、解決が問題ではなくて、単に何かを責めるにあたって、矛盾が強いポイントであるということ、それが責める方にも責められ方にも、言えば、大雑把にコミュニケーションの場において、まことしやかに流通しているということが問題であると思う。因果律とか合理性への懐疑を持ち出すと、烈火の如く怒る人、そんな人はいるのだろうか?矛盾が矛盾である事云々と僕が言い出した時点で、シャラップと言われるか、出て行けといわれるか、無視されるか、どちらにしてもゲームのルールを守らない人として扱われるわけです。損得ゲームにおける、矛盾の強さに関して、実のところ参加している者たちにとって、矛盾が矛盾である事は本質的に問題でない、ということはとても愉快だけれど、笑っているとひどい目にあいそうなのでやめましょう。どちらかといえばダブルスタンダードと言う方がコミュニケーション概念ぽくて軽妙でいいのでは、と提案してみます。話がそれまくった。
 
ハロメンが人間であり非人間である、ということについては、極々最近だと斧屋さんやImamuさんが仰ってたし、継続的に誰彼となく問題にしてる。ああ、問題にしてる、とは可視的に相対的に認識、思惟の対象としている、といったような意味です。
面白いのは、ハロメンについて考える時に、普段の人間の関係性とかを相対的に持ち出したりするわけだが、実は後者が本当で真正なものと前提しているというよりは、相互が相互を相対化している、ということではないか、と思った。