私信めく、ラブレターめく

モッシュさんの最新更新を読んだ。以下、ものすごく屁理屈になるけれど。
専ら「ダブルレインボウ」に関して、松浦亜弥彼女の個性は、そこにある音楽の無個性においてこそ、強烈に発揮されてるんじゃないかと思ったんです。
僕は今のチャートミュージックについてほとんど知らないけれど、それは、ある程度の個性である音楽家、そして彼らのある程度個性的な音楽の成立による世界なのだろうと想像する。加えて恐らくそこには多かれ少なかれハロプロ物語に比肩する物語的な要素があったりするのでしょう。それらについては僕らはなかなか触れ得ない。
それでね、形式的にいって、そんな何でもない音楽、松浦亜弥が彼女の曲として唄う必要がないかもしれない音楽を、松浦亜弥が唄う、その意味はどこにあるんだろうって考えてみる。答えは結構クリアに出たよ。あやや松浦亜弥という極度な個性は、その個性を突き詰めることで、逆転してより大きな普遍を手にしたんじゃないか、必然性や可能性を突破したところで、唄うことができるようになったんじゃないか、って。
今の彼女はきっと何でも唄える。あややの頃の曲も、誰の曲でも唄える。

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071015 歌ドキッ!

 
あれはいつの「FACTORY」だっけ?あやや以前?の松浦亜弥が「ひこうき雲」を唄ってて、後追いで見たのだけれど、あーすげーって思ったのを覚えています。唄い方も全く変わっちゃったなあなんて、今回歌ドキッ!みて思い返した。あややはこの唄好きなのかな?
彼女の音楽家としての素質とか、ハロプロプロデュースとか、つんくさんとか、芸能ビジネス、音楽固有の価値、ファッション、ジャーナルとしてのそれ、殊ハロプロ音楽のそれ、ハロプロにおけるその位置づけとか、観点がたくさんあるわけで、それらを方法的にしろ、無邪気にしろ、頭から無視することができるのか、なんて考えてもみる。でも、言いたいことは、僕はモッシュさんのことを文章などでしか知らないけれど、ネットでもリアルでも袖振り合うも何とやら、モッシュさんは松浦亜弥が好きだね、ってことと、僕も今の松浦亜弥がすごく好きだ、ってことに尽きそう。唄を唄う喜びを静かに丁寧に内燃させているような彼女が好き。