メインテーマを、「生命」であるところの「人間」、「外部」へ向かうものとしての「人間」の、「知」、(環境)世界への働きかけとしてのそれであるところの「テクノロジー」が一体どのように成立しているか、そしてそれは当の「人間」にとってどういうものでありうるのか、という問いかけであると、私は捉えた。
「人間」が「人間」であることの意味を決して放棄しない、それが著者の根本的な態度である。テクノロジーを成立させる基盤としての、対象化、客体化、構造化。人間はそんなテクノロジーによって、動揺し、変容していく(可塑)。人間自身がそれらによって、道具化され客体化され疎外される。そんな中、著者は主体としての人間の復権を求めるわけでも、テクノロジーを放棄するでもない、ギリギリの態度を選択しようとする。
興味深かったのは、外部的なものとしての技術コード、その発生についてや、インターネットエコノミーに対する先見など。著者の情報論はあまり前に出てないような印象だがどうだろう。トフラーの情報化パラダイムミーム、情報としての生命編集など含め諸概念は紹介されるけども、この本ではあくまで副次的なものといった風に受け取った。

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「身体」を放棄してはならない、テクノロジーとしてのメディアはそれがどれだけ身体に肉薄したとしても、あくまで外皮だと著者は言う。でも僕はインターネットを通じて、自分が一個のメディアに過ぎないと思うようになった。無限に連なる一個のメディア。そこでは、基底としての身体についての関心が逓減し、自己もどちらかといえば縮小傾向かもしれない。メディア体である僕をスルーしていく情報はもう麻薬なのだ。著者はギリギリの地点から、自己陶冶の可能性を示唆するし、例えばフーコーの自己のテクノロジーなどの関連的な説にも関心はあるのだが。