キムタクは世界を回しているかもしくはキムタクを世界は回っているか問題、というのがある。tan_po_poさんの仰るように、キムタクが「あー、萌え」って言うと途端、キムタクが世界を回し始めて、「萌え」自体が席巻し、確固たるステータスになるかというとそうじゃなくて、世界の方がキムタクを回るので(裸のキムタクの周りをミニチュアの地球がぐるりぐるり周る様を想像してごらんイマジンオールザピーポー)、ヲタクの「萌え」はキムタクの「萌え」から遠心的に切り離される。ちょっと、ちょっと待ってって言ってるじゃん、と言いながら。
キムタクがじっくり禿頭になっていくとか、じっくりキムヲタクになっていくとか、そうすると、それらのポイントで虐げられているイメージの者たちは、やった俺たちの時代が、と鼻を鳴らすかというと、全然そんなことはなく冷静であり、ただただキムタクから切断されていって、余計に虐げられるイメージが展開されるイメージが展開するのだなあ、なんて、そういう達観めいた自覚。ヲタクのプライドの萌芽点もこの辺りに一つありうるような。
虐げられる(言い方がきつい)含め「負」的なイメージは加減を知らず増幅していく、自律的なイメージで、情報で、その構成に、虐げられる者自身の自意識もあるかもしれないが、それらはもともと社会の巨大システム保持の因子として要求、要請されているのじゃないだろうか、と。つまり価値序列ってのを社会自体が欲していて、あるいは社会が価値序列自体であり、自律的なそれである、と考えてしっくりくるかも。それはトップダウンの価値序列化ではなくて、媒介するもの(既存メディアからミクロなメディア)によって加速度的に拡散していく。価値による秩序化。
ダモクレスの剣でいつかキムタクがズドーンとやられたら、みんな泣くと思う、俺も泣く。それよりも何よりも、価値序列が一気に崩壊して、社会が崩壊して、また一からやり直さなくてはいけないのでみんなオロローンってなる。だからキムタク頑張れ、って思うけど、キムタクだって一人の人間なのにね、ってこっそりみんな思ったりしてる、そんなイメージ。