http://d.hatena.ne.jp/yomayoma/20070821/p2#c より
 

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またぼんやり論。
 
貧相ではありますが、結論から言ってみれば、
ポストモダン」と「サブカル」の現況は内在的に大きく連関している、と解釈することが、一つ整合性ある説明として提示されうるのではないか、ととりあえず考えています。これ、あんまり中身のあること言ってないですが。
 
日本のサブカルの総体、その発生や趨勢、現況、未来、または強引に、オタクのそれらも同時に扱ってみるに、下部構造、もうちょっとゆるく言って、唯物的なものがそれらを規定していると考えることは説得的だと思います。唯物的なもの=(科学)技術、物質経済としての交換体系、象徴の交換体系などとしてですね。
東浩紀の規定
についてはほとんど知らないといいますか、正確に言うと、動物化するポストモダンの記述ですよね?内容についてはすっぽりと忘れている有様なので、また読もうなどと言いつつそのままで。
振り返るに、僕は極々間接的にしかポストモダン的な言説に当たってきませんでした。その上で説得力があるかどうか、僕はポストモダンとはまったく実体的ではない、モダンの「後」ではあるけど、モダンが無いとそれ自体としては規定不可能な何か、言い換えるならば「非-モダン」(それも「非」にアクセントがある)といった気配の観念であると、考えています。
じゃあ、ポストモダンの対照的な根拠であるところのもともとの「モダン」って何なのかということが問題になるだろう。モダンは確定した過去、歴史、その総体なのか。というとやっぱりそうじゃないのではないか。つまるところ、モダンすらもポストモダンによって規定されているのではないか。しかも決定的に。だとしたら、それらは最早ただの循環的な関係でしかないのではないか。
勿論「モダン」の存在を否定するわけではありません。それらは哲学学史的、思想史的、歴史的などなど、ありとある史的にたどりうる言説の総体であり物語の総体である、といった風に規定できるものとしてやはり厳然とあるだろう。
という按配で、屁理屈めいてるのが、ポストモダンの特徴であるのかもしれない。非決定的な決定とか、不可能の可能とか、そういう風に自己言及の概念で捉えうるような特徴。
でも、だとすれば、一体どうしたらいいのだろう、と。真理もないし、普遍的な生き方も恒久的な道徳もない、何も無い。ニーチェが予言したのはこういう事態で、その超克が彼の目指すところだった。
ここでどうする?というのが無時間的なポストモダンの根本的な動機になるのだと思います。
 
で、かなり長くなりましたが、その上で、itaitteiさんの
>いまもって「モダン」であり、場合によっては「プレモダン」なのではないか
という感覚が生きてくるのではないか、と偉そうながら思うところです。
しつこいですが、比喩的に、終わっていくモダンのその終わらなさがポストモダン
なのでは、と。
 

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文化現象としてのサブカルの起源を事後的に(この場合はその現象形態を追うという意味で歴史的に)知ろうとするなら、その政治的な規定性(広義には人間の類としての政治性、狭義にはより一般的な意味でのイズム、イデオローグなどとしての政治性)が現象の根拠であり、それらのムーブメントにダイナミズムを与えるものだと判断することには、一理あると考えます。
 
で、はろぶろ。さんとこでhttp://d.hatena.ne.jp/helloblog/20070822/p6http://d.hatena.ne.jp/helloblog/20070823/p2などホットにかつ具体的に検証されてて、また勉強になった次第です。いぬいぬさんトラバありがとうございます。
 
続く予定