アイドルはオタクなのサブカルなの - 死に忘れましたわ
アイドルはひとつの運動である―ニコニコ動画のPerfumeサマソニ音源によせて - ニート☆ポップ教NEO
アイドルを語る可能、について。
 

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観点としての局所的な「オタク」と「サブカル」。
http://d.hatena.ne.jp/yomayoma/20060424/p4の頃からほとんど認識は変わってないな、と思う。根っこの印象でいえば、相対化してみて
・オタクは、より、情熱的(主体的)、サブカルは、より、そうではない(客体的)。
・オタクは制度的な迫害の対象、サブカルはそうではない。
あと蛇足だが
サブカルはオタクに片思い
って風に受け取ってる。2項目の制度的云々はぼんやりながらも言いすぎだろうか?
 
オタクもサブカルもその閾値がぐっと下がった。これはImamuさんのhttp://d.hatena.ne.jp/Imamu/20070815/p1のコメント欄での、itaitteiさんによる「大衆文化」からのインスピレーションにもよるものだが、いわば「大衆文化化」といったような意味での、閾値の低下であると考える。この場合の「大衆文化」はモダンな概念であると、より規定しやすい、わかりやすいように思えるのだけれども、ポストモダンにおける「大衆文化」という話になると、その混在するイメージゆえか、やっぱりちょっとよくわからなくなる。そこでは「多様化」や「乖離化」、あるいはその反対概念であろうところの「単一化」「一極化」「均一化」が事毎にタームとして尊重されるわけで、その概念をそのままに、それらに限っていえば、実はイメージとしてはわかりやすくもありそうなものだが、そこはポストモダン、「外部」やら「メタ」やらが、これら諸概念をどうしようもなく揺り動かしてしまう、というよりはその揺り動かしがこれら諸概念の揺りかごであるともいえるし、結局のところそのような「超越」を内化しないと気がすまない強迫的な自己言及が自己言及を呼んで、途方にくれる、ということになるわけである。
 
それはさておいても、「オタク」「サブカル」の閾値が下がってきてことさら感じられることは、この両者は量的にはともかく質的には別に異ならなくなってくるのじゃないかなあ、ということ。それは、語る主体としてのそれら両者という意味で、である。内容としては、上記の「大衆文化化」の条件、唯物的な条件としての、技術化、経済化によって、その両者の相貌が変化し相似してきたのか、もともとある程度重なり合う部分があったのかなどはともかくも、同じようなものに見えるようになったことを意味する。つまり、語る主体としてのその両者の存在が、まさにその語るという行為において、同質化してしまう、という事態である。語るという行為は唯物的にフォーマットされてしまう。ここでの「語る」は少しく抽象的な意味をも持ちそうだが、実際、端的にリテラルな「語り」であるし、単純には「情報化」である。その意味で「オタク」であれ「サブカル」であれ、当然情報としての画一は免れない。各々が如何にその主体性を発揮しようとも。
 
やっぱり見方としてはこれは大分極端だろうな。今更であるが、前後して、僕自身は「オタク」「サブカル」どっちなのかというと、どちらからみても多分どっちでもないし、どっちでもありうる。歯切れが悪い。自己規定あるいは選択するなら、どっちでもなく、かつ「あれもこれも」の姿勢をとりたいものだが、さりとてそのような規定あるいは選択自体にプライオリティをそれほど置いていなかったりもするし。
 

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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%96%E3%82%AB%E3%83%AB
ウィキのサブカル
 
あとnittagoroさんとこ。
http://d.hatena.ne.jp/nittagoro/20050322#p1
http://d.hatena.ne.jp/nittagoro/20050324#p1
http://d.hatena.ne.jp/nittagoro/20060423#p3
 
あくまでメインに対するサブであるし、実際的に政治思想的な言説でもあったという歴史の重みがあったり。
 

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繰り返し気味に、なおかつ更におおげさにいうと、今は「オタク」「サブカル」がおしなべて物々の符牒としてしか機能していないのではないか、と。「ガンダム」は「おたく」的だ、とか、「モーニング娘。」は「オタク」的になってしまった、とか、「perfume」はサブカル的だとか。この辺り、筆者のそれら文物のあまりの経験の無さが露呈してしまって、説得力皆無であるわけだが。でも、まあ最後まで言わせてください。要は、それぞれに固有の、それをそれと同定する(政治)思想的な本来性でさえも量化されて無くなった、あるいは見えなくなって、ただただ「オタク」的「サブカル」的な物々が膨大に消費されていくといった按配。その意味でそれはポップな文化性であるし、例えば、オタクでもサブカルでもないようなものであるところの「ヲタク」という概念の生成の促しでもあるかもしれない。そういう意味で「ヲタク」って両者ハイブリッドの謂いだと判断している。「ヲタク」動物。
 
あしからず、「オタク」「サブカル」自体が消滅したなんて言いたいわけではない。ただそれがそのままあるとすれば、情報化=量化を逃れたところにしかありえないのではないか、としかいえない。抽象的だけど。そういう風に消極的にしか規定できない。想像するに、それは外部性だったり他者性だったり、具体的には個々の生である。それらは究極的には量化できないはず(と想像する)。たとえばhelloblogさんのhttp://d.hatena.ne.jp/helloblog/20070817/p6における「ライフスタイル」とか。オタク的生。それも言説からそして情報=量から逃れうる限り有効なそれ。そんなの今ありうるかどうか、それはわからない。あるとしたらそれは内部に引き入れられないものだと考えるから。
 
オタクはオタク動物に、サブカルサブカル動物になってるように見える。それは動物という意味では同じ。動物として動物的に対象と戯れて語る、言説を紡ぐ。ベタもスノッブもシニックも同じ土俵にある。それは寂しい事態であるといえば、そうなのかもしれないなあ、と今感じた。
 
参考:
http://chiruda.cocolog-nifty.com/atahualpa/2006/03/vs_1218.html
http://d.hatena.ne.jp/./kagami/2005042
 
で、以上が、両者からちょっと距離離れている風な目線による観念論(戯言)的前提で、ことアイドルにまつわるオタク言説、サブカル言説の可能を云々するのが本題です。
 

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といっても、やっぱり僕は特殊としてのモーヲタハロヲタ(的な何か)なので(これは多分に自意識的であるが)、勢い個からアイドル一般へ、というような論理的には無茶な語り口しかできないだろう。
 
id:Imamuさんは「ジェンダー」を痛烈に身に引き受けていらっしゃる印象がある。性の制度的な搾取の対象としてのアイドル。そういう産業、商業、システム。id:massunnkさんは「愛」を持ち出された。それはいわばオタクの主体性としての、主体的な性格を持つ「愛」だろうか。だとしてもそれは単に復古的なものなどではないだろう。オタクそのものそのままの復古はもうありえない。id:onoyaさんは「倫理」から改めて「制度」的なものへ向かわれているように思う。id:ealさんは「ヲタク」に尚とどまりつつ「萌え」によって何かを内破せんとするように見える。
 
僕は「物語」と「恋愛」を往復的に架橋しようと思うが、それは特別なことではないだろう。まずもって何より「物語」も「恋愛」も一般的な概念であり、本来的に射程が広いと考える。その上でそれらに仮託するのは、より人間的なものの何かであってほしいのだけど、具体的にどうしたらってのはよくわからなくて、あえて言うなら存在の仕方そのままなのだが、それでも抽象の度合いはほぼ変わらない。
例えばある文化、その文物とどう対峙するか、どうおつきあいするかということ。でも道具となる「物語」「恋愛」は普遍でありながらも(あるがゆえに、かもしれない)イデオロギッシュな性格をもってしまうのではないか。それは、自己言及的であり本当の意味で相対主義的な批評理論の側面ももつだろう。私は、私たちは何かを選択できるのか?一人称から二人称への飛躍、ある種の主客論、運命論、歴史哲学、その他のエッセンス。
 
前言どおり特殊から言おう、アイドルを自分の対象とすること。そこにおいて、恋愛は決定的である、致命的であるということすらも、実はイデオロギーであるか?疑われない本能、性的なそれは制度が組み込んだものであってはいけないのか?アイドルへの擬似恋愛は擬似恋愛を馬鹿にするのではなくて、実は恋愛自体を薄ら寒く馬鹿にしているのではないか?
 
人間は本来的に交換できないものを交換していく。そうせざるをえない。同一性の問題。正当化の問題。倫理の問題。それは人間が決定的に時間的であるからだ。それでもかそれゆえか私は、私たちは「物語」を続ける。それは存在論の範疇だろうか。
 

ところで、なによりもまず第一に「ある」のは存在です。思考は、人間本質への存在の関与を仕上げます。思考は、このかかわりを拵えたり、生んだりしません。思考はこの関与を、ただ存在から思考自身に托されたものとして、存在に申し出ます。この申し出は、思考のなかで存在が言葉になる、ということです。言葉は存在の家です。その住まいに人間が住まうのです。
 
ヒューマニズムについて」ハイデガー 桑木 務 訳

 
根源的に「ある」=「存在」が私を突き動かすのかどうか、それはとりあえず置いておくとしても、ハイデガーが示唆的なのは、「言葉」を使うことを最重要のモメントとして捉えているように見えることである。「言葉」を使うことの先行きとしての「物語」的な何か、そしてそんな「言葉」を使うことを実に疑わせるかのような、あきらめさえさせるかのような「恋愛」的な何か。
 
何のことは無い、独善的な抽象論で終わってしまいそうだ。僕は、真上に投げて見えなくなっていたボールが宙を衝いて放物線を描き始めた、そんな落下の心境で物語り続けるだけなのだろう。そしてそれはやはり、まったく何と言うことも無い反復の端緒なのだと思う。

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追記的に
 
このブログに「女のコファシズム」なんておっちょこちょいなタイトルつけてますが、これはフェミニズムとは関係ない、とりわけアンチなんてのでもないけど、そこから遠い、無縁なところにあるはず、と考えていた。でもひょっとしたら、やはりそれはフェミニズムに対する無意識的なリアクションだったのだろうか、と思うようになった。http://d.hatena.ne.jp/Imamu/20070815/p1のコメント欄のやりとりなどの機縁。
自然のメス化なんて一時言われてた(アクチュアルな環境ホルモン問題についても知らないのだが)のを表層的に真似て、文化のメス化を言おうと思ったけど、でも寸足らず、というような、それが女のコファシズムだった。ファッショナブルな思想としてのあざといファシズムだし、人間の精神の行く末、業としてのファシズム(いわゆる全体主義的なものへの隘路を開くものとしての)のニュアンスも込めたかった。でもいい加減なノリであっただけなのだが。また、皮相的、ポップに、あるいはファッション的にいってみて、男が何をしてももう面白くない、という考えもあった。これはちょっとアナクロになってるかもしれないし(ファッションにおける反動的なもの、「新しい」「パロディ」的な「男」文化を最近感じるから)、だから女の子へ、というのは短絡である、選択の可能性を見失っているということも考えられるかもしれない。
男子的な価値、もっと敷衍して「男らしさ」とか、またあるいは「青春」という価値など、そういった大きな物語的なものの価値の相対化を推し進めたのは、まさにハロプロにこそあった女の子の青春、女子群像だった。それはどこかノスタルジックなロマンティックなそれらだった。大きな物語はおしまいであり、なお亡霊のように不気味に残存しながらも漸次的に終わり続けている。「青春」は病気のうわ言で、押し付けられたそれにはリアルさや確かさなど微塵もない。なのにそれはいつも強迫的だ。青春は俺をほっておいてくれ、置いていってくれと思う。そういう青臭さ、不貞腐れなどが結局自己言及的に青春でありうること、それすらもうんざりだった。亡霊は、規範としてのそれらは、解体され相対化され続けて、今度は実にミクロの次元で日々新たに息づいているようにみえる。これが小さな物語で、更にはまた大きな物語の回帰願望である、といったことはまた別の話。ともあれ、それがいささかほほえましくみえるのは、何かしらの開放感からくる余裕によるものなのかもしれない。勿論僕も誰もそうした趨勢を免れるとは思わない。誰も独りで必死で引き受けていくしかない。翻って、ハロプロにあるものあったもの、その諸現象は、ほんとにささいな、笑ったり泣いたりすることの意味で、それは人為的な演出からどこかすーっと逃れているようなものだ。きっとアサヤン的なものではない何か(アサヤン的なものを否定するわけではない)。巨悪と戦うでもない、制度に抗うでもない、ほんとにほんとにありきたりのささいなもの。ミクロなもの。
芸能界に住むのは鬼か魔物か、程度の差こそはあれどちらにしても、それは拡大された現実であり、日常であるのだ。あちらは非日常なんかではない。その仕組みは「ばれ」というかたちでばれてこちら側に回収され続けている。それが本当の事実であるかどうかは問題ではなくて、それが真実的に私たちに「ばれ」として共有されているということが大きなポイントなのだと思う。いわば大人の世界として。芸能界の制度と虚構的な華美として。
そんな芸能界においても、それでもハロプロが放っているものがある、などというと大仰だろうか。いや、というよりはもっと積極的に、そういった現実、制度的な日常で、きわめて普通に日常を示し続けること、私たちの鏡のようなもの、特別でないもの。芸能界において非芸能界的(非旧来的)であることの芸能界的価値(現行的)、というレトリックなんてこの際ほったらかしにしてもいい。私たちはそれと付き合って、笑って、泣いて、傷ついて、離れて、戻って、物語ってを繰り返す。