http://mangasick.cocolog-nifty.com/alta/2007/07/post_68ef.html
オルタさんのところから。
 
書きたいポイントが多いので、一挙にまとめるのがいろいろな意味でしんどい。ので、ゆくゆくは個々をばらして、書き直したい。そのためのメモ(エレンさん風叙述)。
 
・オルタさんの「導線」と「作品」の関係は、イメージで言えば、ゲシュタルトの地と図ぽい。それらは本来的には切り離せない。知覚のレベルからより高次(相対的に)の認識へと移行することで、分離は可能である。
・オルタさんの「すごい」と僕の「おもしろい」は、価値において「客観性」を担保としようとする点でとても似てると勝手に思いました。共感。→http://d.hatena.ne.jp/yomayoma/20070624/p1
・価値の問題、そこに「エンターテインメント」を絡ませることはできる。むしろ、業態としてのインディーズにとってもそれは積極的に関与すべき案件である、といえる。バランスは肝要であるが(一般論的な意味でなく)。
・ただ「エンターテインメント」固有の無視できない問題がある。エンターテインメント・イデオロギー(その共有のされ方の特質、その変質、実際的にはエンターテインメント享受の面)。
・関連的に、なぜベンヤミンは「アウラ」≒「一回性」を言うのか?彼の歴史哲学からの要請。
・「一回性」という「価値」は(エンターテインメントにおいても)、価値論におさまらず、破ってしまう。
・「複製技術」−「アウラ」という二装置が逆説的(弁証的)に志向しているものがあるはず。
・技術によってフラットになった世界(観)。それが価値論に及ぼす影響。
・価値論が自己言及することでメタに遡行する、そのことを禁止する。ポストモダンの戦略の一帰結。自己言及することで自己言及を禁止することによるというギリギリの綱渡りによって、どこにいけるか。
・1つの逆説。主観は客観である。というより客観でしかありえない。
・たとえば、エレンさんの「歩いてる」評と、オルタさんの「告白の噴水広場」評、僕の「歩いてる」評は価値言説として同次元(客観性において)にあるということを、コミュニケーション(人それぞれ)では肯定できるが、論理的(価値論の論理)においては禁止される。これが1つのギリギリの真空の状態。
・「作ること」の可能は、やはり前述の価値を、その動機としても、実質的な(技術的)プロセスとしても前提するだろう。
・前提しないなら、エイリアン(外部にいて回収されないもの)になるしかない!しかし外部は「ない」。
・「作ること」は「読むこと」「聴くこと」その他諸々であり、逆転しうる。どちらに優位があるというのでもなく、それは同時であり、等価である。受能の幻想の終わり。
・ネット時代において技術が一億人総評論家社会を現出させた。そこにおいては「見る」論理と「やる」論理が極端に乖離していっているかのようである。が、実質としてはまさにその逆で、それらは漸近的に近づき、くっつくことになる。
・何か作品を享受し評価すること、解釈すること、具体的には「好き」「嫌い」「神」「うんこ」などということ自体が「作る」ということに回収される、あるいはそれはそのまま「作る」ことである。評論すること、評価することは「作る」ということである。
・それは技術が可能にした「総表現」(梅田望夫)ではあるが、真空の価値闘争である。
・本当の平等は類としての人間に酷薄に訪れる。