「ネット」が与えてくれる万能感は、三半規管を根こそぎ奪っていくので、ひどい「酔い」にも気づかない、というおはなし。「リアル」とバランスを取ろうというけなげなガンバリズムが、二日に一回となり、三日に一回となって、一週間に、一月に、盆暮れに、となるとさあ大変、もう立派な「ネット超人」の出来上がり。だらしないヤツは、「3日坊主」→「3秒坊主」と学研のことわざ辞典を書き替えさせる、スピードで完成するお手軽感。畢竟これがグーグリズムとアマゾニズムの野望だ、マトリックス
 
ああこれは暗い話でした。マトリックスはどうでもいいのでした。うーむ、「ネット」と「リアル」の区分の恐ろしいところは、「ネット」のない世界の存在不可能性を隠蔽する点にあるのではないかと思ったのです。例えばそれは、ネットの無い暮らしをしている人々の存在を我々は想像できるし、実際そういう人々と触れ合うこともできる、あるいは積極的に我々自身がネットを放棄して、その生活に飛び込むこともできるのですけども、そういうことじゃあないのです。また逆方向に、今、テクニカルな次元でネットに繋がっていない人々もいずれは、良きにつけ悪しきにつけフィジカル≒テクニカルな次元に回収されるだろう、山奥の村に電灯がともった、という具合で、ということでもないのです。ああもどかしい。
 

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「電脳世界」のヴィリリオのリズムでいけば
 
写真表象に対する印象主義絵画
広告やらのプロパガンダリズムに対するドキュメンタリー映画という
芸術のテクノロジー(の速度)に対する批判的アプローチ

インターネット、ウェブ2.0に対しては
ウィルス、スパムトラックバック・コメント、ハイパーリンクブラクラ
という暴力がそれになるのかも(減速→徐行→停止)、芸術としてのそれら。