http://d.hatena.ne.jp/yomayoma/20070623/p1#c
価値の問題は避けて通れないから、どうするか。
 
「面白い」って僕は好んで使うのですけれども、それは、できるだけ狭義の価値の文脈から逃れたいって動機からなんだと思います。決定的には決して逃れられないんだけど。「面白い」ってのは、ひとまず端的にいってみると、「まだ知らない情報・意味ー解釈」です。
 
何で価値の文脈から逃れたいのかといえば、価値に関する擬似相対主義に陥って、思考停止しちゃいそうになるからです。擬似相対主義ってのは「人それぞれ」「蓼食う虫は好き好き」「十人十色」ってやつです。何で「擬似」って言うのか、言いたいのか。それは価値の問題のくせに認識のフリをするからです。コミュニケーションの次元にあるのに認識ぶるからです。もっというと、本当に「人それぞれ」そんなに違うのか?という生物学・生理学的な観点からの素朴な問い(だって同じ「人間」なのに!)や、「人それぞれ」というときの「視点」はどこにあるのか、その「人」に自分は含まれているのか、含まれているなら、どうして他の人の価値と自分の価値を「それぞれ」なんて言うことができるのか、比べることができるのか、その基準はどこからもってくるのか、といったちょっと屁理屈ぽい認識論の問いを出せる。もっともっと意地悪くいうと、「人それぞれ」なんて言いながら、本当は「人それぞれ」なんて思ってないでしょ、自分が一番でしょ、ってそんなことを言えるわけです。蛇足ですが「自分の価値が一番」は全然悪いことなんかじゃない。認識論的に「一つ」追い詰めれば、それが全うだからです。例えば方法としての独我論。道義的に言えば、それは驕りだ、謙虚さが足りない!なんて非難を受けるかもしれないけれど。
 
本当の本当に「相対主義」があるならそれは、そんな「自分が絶対」っていう価値の闘争の動的均衡にしかない。そこでは全てが全て「自分が絶対」です。でも残念なことに、そういう事態はその中に、つまり相対主義ゲームに内在する限り認識することはできない。イメージで言えば、ショーペンハウエルの物自体≒意志が近そう。盲目的な意志がそれぞれに自己の伸張を図ります。本当の相対主義はそんな意志≒価値が絡み合ってぎゅうぎゅう詰めになって超高密度になっている、点≒真空のイメージです。
 
でもこんな理屈は普段言わないです。いわゆる「常識的」に「人それぞれ」ってのが機能することを経験的に知ってるからです。それは価値論でも認識論でもなく、日常的なコミュニケーションのはなしです。あるいはその知恵です。仲良くけんかするならまだしも、血みどろの歴史は繰り返したくない。「人それぞれ」でいいじゃありませんか、万歳。また、いわゆる日常の感覚として、ああこの人の価値はこうなんだなあ、といった情感だったり人間理解だったり把握にはそれぞれ固有の意味がある、と思います。それから、相対主義に関する言説にも勿論積極的な意味があると思う。と、こういう物言いがすでに擬似相対主義的なのですが、循環。
 
さてそんな循環を軽やかに無視して飛び越えて、前述を翻ってみるに、「面白い」=「まだ知らない情報・意味ー解釈」という「価値」の言葉で、当の価値の文脈から如何に闘争しながら逃走するか、そんなことが可能なのか、という問題。ポイントは「まだ知らない」ということです。そのポイントで一つ客観性を確保しようとしているのです。価値なんて主観に過ぎないと言うシンプルだが力強い価値との対決です。価値を客観化する、なんてうそぶくと大言壮語のきらいもありましょうが、もう少し。
「まだ知らない」とはどういうことか。何を知っていて何を知らないか、それをどうやって区別するのか、というところに前述した客観性の命脈があります。「客観」といえば例えば科学の素朴で厳密な客観性がある。でも、僕が確保したいそれは数値化や計量化「だけ」ではないです。それも大きく有効ですがそれだけじゃない。それは無論重要ですが一つの客観性でしかないです。
 
結論から言えば、僕が想定するのは「モノ」の属性としての客観性です。その「モノ」とは、物、事、とか全ての我々の志向の対象という意味です。よっすぃーとか、吉澤ひとみとか、よすぃことか(これらは全部異なる)、亀子とか、ハロプロとか、お芝居とか、事件とか、戦争とか、歴史とか、張本さんとか、ガジェット、巨大建築物、ブラックホール、馬頭星雲、銀河団、「ある」、「ない」、ゼロ、レプトン、APT、GATT、NWOBHM、ネタ、ベタ・・・何でもいいです、無数のモノ、森羅万象。シニフィアンシニフィエシーニュ、記号。モノがあるから、記号があるのか、その逆なのか、という発生論、起源論的な議論はひとまず置いておくとして、それらは差異として、ズレとして「ある」。が、差異、ズレそのままとして、「ある」わけではなくて、流動的で生成的な総体で、まるで視覚的でないものを視覚的にするSFのイメージです。同一性と非同一性の揺り動き。潮の満ち引きのような。そういう特異なあり方としての「ある」という客観性。
 
その上で、その持続的に生成的にズレていく「モノ」は言ってみれば全てが「オリジナル」であり、その限りで前述の定義からすれば全て「面白い」と価値付けられうることになる。全てが可能的に「知らない」「モノ」でありうる。ここで一つの絶対的客観性、神様的な何かを想定することができる。つまり、全ての「モノ」を知っている「モノ」がそれである、と。そこにおいて「僕」という「モノ」が如何ほどのものであるのか。僕は何も「モノ」を知らない。そんな芥子粒のような「僕」という「モノ」が神的な何かである絶対的客観を睥睨し、それに近づこうとする。その足掻きが、「モノ」の解釈で価値付けである。ここにおいて「面白い」はタダの「モノ」になる。それは「つまらない」の対義語などではなく、それぞれがそれぞれのモノであり解釈である。常識的な意味での価値の記号=モノ=言説はここで解体されます。しかしそれら「モノ」は実体論的な何かではなくて、関係的な関係であるところの「モノ」=ズレなのである。
 
前後しますが、という断りが抽象を、飛躍を正せるとは最早思いませんけれども、つうか最後飛ばしすぎです、とにかく、僕は知らないモノを知っているモノに塗り替えていく作業をしているわけです。そういう意味では僕だけじゃなくて皆。でもそんな「知っている」と「知らない」はモノ的世界観においてはもう対義語でありえないわけです。じゃあ何をしているのか、根本的には、すききらい、快不快、人の行動の規則、機制については、人のはおろか己のそれに関してもわからないわけです。これは逆転ホームラン的「モノ」です。どんな「モノ」が人を動かすのか。それは盲目的な意志か、欲動か、欲望か、欲求か、本能か、神の意志なのか、ランガージュなのか、差異なのか、権力なのか。
 
逆転ホームランですが、でもサヨナラじゃないです。サヨナラは無い。
 

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途中からしんどくなって、飛ばしました。ここまで読んでくださってる人がいるかどうか自信がないのですが、書いただけで自己満足できました。話としては、価値のそれでした。あと、僕が「面白い」という時の「面白い」の意味を説明したいと思ったので。ここに書いたことは特別新しい話でも何でもないです。観念的で抽象的ですが、色々な文化の文物をこれで横断していきたいと思っています。そういう原理論です。