美学より美談、
大きな物語より小さな物語。
提供はUFAでお送りします。
そんな趨勢に逆らって、美談より美学を紡ぎたいという
消費者=能産者の負担は大きくなっていく。
負担なんていう時点でもうダメだが、そもそも
過剰な読み→エクリチュールにどこまで期待するのか?
インターネット技術で語られてきたこと語られること、
その内容も行為もコントロールなんてできやしない。
 
情報の非対称性は絶対で、例え事実を与えられても
それらは真実にはならないだろう。
本当のことより、面白いウソ=真実がいい。
何も信じないということをだけ信じる、といった
ソクラテスデカルトじみたレトリック、その表層を踏襲し
状況を踏まえた上での、戦略としてのアイロニー
みんなわかってるんだけど、それでも
馬鹿やろうぜ、楽しもうぜという皮肉の態度はギリギリで
有効だ。アイロニックなパトス。
 
ハロプロ享受者のジェネレーションギャップの問題
つまり世代の感得の違いという、より局所的な問題ではなく
もっと大きく、エンターテインメント一般が技術によって
暴かれている、ばれているという事
大きな物語がもう絶対に機能しないことが問題であるなら
殊消費に限れば、その即物性が圧倒的に優位に立つのは免れない。
消費と能産はいずれ完全分業体制になるかもしれない。
即物的「かわいい」「楽しい」「すごい」の羅列が続いて
そしてやがて誰も語らなくなって、世界は沈黙するだろうか。
 
こんこんんんんんんんんんんんんんn!