敷衍して、例えば美勇伝や、ごっちんもそうなのかな(これはすっとぼけではないです)、「エロ」以外で読める「解釈可能性」が豊潤であることの意味は、見る者の積極的だが恣意的な「誤解」(「解釈可能性」を逆手に取る、といえるかも)をハロプロフォーマットが許すことだ、と考えるのですが、これは楽観的だし非現実的なのかもしれない。美勇伝のエロはギャグだ、とか、ごっちんのエロカッコいいはごっちんだからこそ成立する、とか、物凄く偏向してる、いえばそれはまず第一にハロプロに内在的であるからこそ成立しているに過ぎないのではないか。要は、僕は一介の内側にいるハロヲタでそれ以上でもそれ以下でもないです、という話で(まぁこれは内外の線引きが固定的確定的であることを前提としているでしょうが)。そしてそして、そんなハロヲタでもヒヤリとする時がある、生々しさに餌付く時がある。これがギリギリの綱渡りな状況で、楽しい時もあるし楽しくない時もある。で、その上で、そんなそれらを肯定していくのは、ただの怠慢なのかな、という見方もあるでしょう。
 
作り手がそういう共同幻想的な「ハロプロ」(もっぱら僕が言ってるだけかもしれない)にどれだけ仮託するものをもってるのかはわからない。多分どういう意味でもほとんどないだろうな、と想像はします。君たちこれはただのエロではないんだぜ!というのは作り手にはない、と想像する。いや、どうかな。あきらかに狙ってるだろうってのもあるしな。でもムラがある。だったりすることもあって、受け手の牽強付会もあがったりだあ、となったりする。いや牽強付会は暴言です。受け手は同時に作り手ですからね。それは別の話。別の話ばっかりだ。とにかく、そういう例えば「ハロプロ」×「エロ」や「ハロプロ」×「子供」を積極的に否定する向きもあるだろう。もうそういう幻想は破綻してるでしょ、ってことですよね。非現実だよ、と。
 
僕は結局のところただ乗りする人です。時々こうして想念を晒していて、他のヲタの方々に悪いなって思うことがあります。真剣に悩みます。俺ヲタじゃないよな、って。なのにヲタのふりしてるな、と。この場合ヲタって言っても、普遍的でなくて、ハロヲタの固有みたいなピンポイントの部分ですね。「現実的に」ハロプロのことを考えていない。それは一ヲタに現実的に何ができるのかという話とはまた違うと思う。ともあれ、現行の(あるいは破綻してしまった)そういう共同幻想ハロプロフォーマットが成立するのは、支えている人々がいるからなわけで、僕は上澄みをすすってるだけなんです。これは自虐やいい人ぶりっこなんかではないです。
 
ころっと別の話。高橋愛のエロだけがほとんど唯一そういうハロプロフォーマットから出ちゃってる風に感じます。何なんでしょうかあれは。エロそのままなのよ。回避できないから、誤読できないから、すごく悔しい。絶えずフォーマットに回収し続けているイメージ?それでも横溢していくようなパワフル。原初的エロ。はじめにエロありき。高橋愛はいつだって悔しい存在ですが、殊エロスの領域に関しては完敗です。愛の意味を教えて!ですね。負傷の程度はわからないけれど、たかしゃい流にクリアしておくれ。僕捻挫したことない、骨折もないし、イメージしにくい。とりあえず小さい頃から牛乳を飲ませ続けてくれた父母に感謝したいと思います。