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悲しみトワイライト
 
先日のMステ、よすぃこの最後のサビが焦点に
なってしまってるように感じる。
あれは何だったんだろう、
物語点火の瞬間だったように思う。
カトブレパスのひとみのよすぃこ
 
PVは静動緩急の対照くっきり、特別遊びなどはない。
このボディコンシャスな衣装のイケナサは好きだ。
そういう際どさの推移、緊張関係、
危ういのは楽しい。
今の娘。だからこそって部分だろう。
 
一回目のBメロ、さゆがみきてぃをちらと横に見る
その視線を追いたい。この子独特の艶っぽさ。
 

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アレンジ(形式)はファッションだ、
という命題、
あと
ファッション(流行)は繰り返される、
という命題。
 
「80年代」「○○歌謡」という言葉について。
 
80年代の音楽を総体として鑑みようとすると、70年代からのその量的増加が質に転化するような、「テクノロジー」が楽器で音楽である、そんなアンバランスがまず浮かぶ。技術が形式なら、内容が完全にそれに沿うというような。技術ありきの音楽。その点で新しいものがうまれた反面、実際、やってることはそれまでと変らない、あるいは逆にとても懐古的なものも(底には反動の思想があったのかも)同じくらい多かったのではないかと思う。それはつまり両者の乖離である、それ程技術がぶっ飛んでいった印象。事実としてどちらが先かということはともかく。
 
上記「テクノロジー」のところに「ファッション」「政治性」「思想性」などを代入しても結構すんなりいきそうな気もする。規定性が音楽に先行する(ようにみえる)80年代。というよりは、そういう規定性こそがそもそもファッションということなのか。
 

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「○○歌謡」は、そもそも「歌謡」が、「歌謡曲」がいまやもうどうしようもなくわからない概念、言い換えれば、曖昧に共有されているくせに強力な概念なので、極めて形式的に呼称されるのだと考える。その呼称の意味は、表層的には、いつかの何々に似た、それっぽい楽曲グループ群、といったような意味で、パースペクティヴが勿論今である、その今の観点からの歴史化に基づくものであるといえる。例えば、その音楽がどのように作られたか、要請されたかということを、知識として形式化・共有化できる(という前提がある)からこそ、○○歌謡と呼称できる。逆に言えば、○○歌謡は当時無かったのではないか(呼称が無かったというだけでなく)、と推測する。ひょっとしたら大元の「歌謡曲」自体が当時は可視化されていなかったのでは、という発想も可能かもしれない。