ラブハロ!―亀井絵里写真集inプーケット

ラブハロ!―亀井絵里写真集inプーケット

 
萌え→→→人間の肉体
矢印間は断絶です深淵です。
萌えは駆逐されて欠片もない
未練もない、捨象。
形式的にそれらをなぞるカットがあるが
ただのパロディになってる。
ダイナミックすぎる。亀井絵里的転換。
テーマが太い。亀子の脚も太い。
 
写真集の亀井絵里を通時的に反省すると
思想においても目に映るものにおいても
「17才」は過渡か空白だったのか、と。
しかしラブハロプーケットから見れば
前作のハワイの曇天という一要素は決定的な不幸だったと言い得る。
それほどここでの天候も大気も
森羅万象ありとある自然事象が亀井絵里に親密だ。
 
「DAYS」で無邪気に
ハロプロにおける萌えの領野をダイナミックに開発して
(それは記号の病だ)
プーケットで健全な肉体に惜しみなく回帰した事変。
アップトゥデートが一転して
新古典を標榜するような。
 

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http://d.hatena.ne.jp/yomayoma/20061217/p5
からまたやり直す。
 
亀井絵里の変態は
彼女自身のそれつまり性質というよりは
(それ自体がないとはやはりいわない)
彼女を見るものの変態(的欲望)をまず言っていて
それは記号的だしまた男根的な見るものの論理かも。
何かをアブノーマルだというには規範か基準としてのノーマルを
もってしてでないと不可、というのは一つの理屈である。
その有効性自体については云々しないが
例えば、アブノーマルだからこそ何かをアブノーマルと
断じることができるのでは、投影できる、
欲望できるのでは、というのもまた一つの理屈であるだろう。
そしてそして、変態のもう一義(metamorphose)は
亀井の進化論の話になってこっちも楽しい。
 
前後するけど
テーマに順応しやすいというか
弄りやすいというような「被対象性」とでもいうか
そういうのも最初の意味での変態の一側面
ではないかと思う。見るもののアブノーマルの論理。
 

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南国の必然性については
さゆと対照だと思う。
 
南国が恐ろしく似合う二人だが
さゆは透明人間か鏡になるし
亀子は同化してしまう。
そう例えば「星砂の島−」では
現地民より現地民だった亀井絵里だった。
 

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ほっぺたなどを見ると
大分ふっくらな感じ。
ほんと若さとか健康というものは
愛おしいものです。はちきれてる。爆発。
 
色々な地平でバランスがいいのかな。
エロとか清純とかハロプロとか何もかものバランス。
 
表象として回帰的なのが
これまでの写真集にあった構図と似ている
もしくは想起させるショットが何点かあること。
位置は同じだけど高さは違う、螺旋の比喩。
 
最後の方
黄昏にたたずむ写真で感じたが
この人古風な日本の美人だなって。
いや古風な日本美人のことまったく知らないで
言ってるからいい加減にすぎるのですが、直感的にね。
まず一つは顔立ち(パーツ)から、もう一つは
たおやめとかその辺りの文化的なものから。
 
結論は
亀子の額の産毛で遭難してーなあ
ということです
遭難して食べるものがケーキ1ホールしかない
っていう亀井的遭難状況ね。
誰も助かろうとしないという。
 

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今日は亀子のDVDとたぁプーケット
梨華ちゃんDVDも来たが
亀子で飽和気味なのでまた後日にしたい
という贅沢。