VERY BEAUTY

VERY BEAUTY

 
「蝉」を思い出す。それは例えばアコースティックギターのリズムカッティングとか、ミディアムテンポのバラードであるといったような楽曲の表面的形式的な要素によるものだけではないのだと思う。いや積極的にそれらは違う、そういうことではないのだといってみてもいい。それらはただの印象のきっかけ。
それは図式的な相似によるのだ、と仮定する。僕−「唄」−ベリという図は、どの唄においても、いやもっと広く聴取という意味で普遍な、一般的な一モデルなのかもしれないけれど、その図自体を先鋭的に自分自身で、メタ的に同時に主体的に引き受けざるを得ない、という点で特異な楽曲(あるいはそういう「楽曲的」状況)がある、というと何やら大儀だろうか。それが今回の曲もまたそうだったということ。
今更だし、何度も言われてきたことだろうが、Berryz工房はいつもたいてい二つの意味で残酷だ。それは決して戻ってこないが確かにあった、ある特定の時間のことと、女の子であることのあり方を「直接」示すに全くためらわないということで、当然ながらどちらも今僕には無いものだからだ。片方はかつてはそうだった、あったという意味で、相対的に無いし、もう一つは絶対的に無い。でもだからといって、そういうことを残酷だと評すること自体、あるいは、彼女たちだけでなく、彼女たちに繋がる全ての物事に対しても、とても不当であるだろうし、何といっても、僕は任意に選ぶことができるはずなのだ。要するに、ならば、聴かなければいい。この唄が大好きだが、実に聴きたくない、とでもエクスキューズしながら。「僕は大人になった/佐野元春」のしたたかなやんちゃさ(これは自分が大人であると主張する桃ちゃんの思想に通ずるかもしれない)で、ではないけれど、少なくともBerryz工房よりはいたずらに大人のはずだからな、他者という大人だよ、ユリーネ。自分を他者といってのけることには少なくない抵抗があるな。しかし、嗚呼ユリーネの朗々としたあの歌唱は何なのだろうか。あのAメロは。りしゃこもみやびもそうだ。匿名の女の子達であることを自ら破壊するかのようなソロの詠唱なのに、実はちっともそうじゃない。匿名は匿名のままだ。そもそもユニゾンBerryz「匿名」工房の機能だ。たくさんの顔で焦点が合わない女の子たちの権化。うきうきさせるBメロの一瞬のシャープ音や、冒険的ともいえそうなサビのファルセットのユニゾンはしかしまた、個人のモノローグで破られ終わる。しかしやはりそれはいまだに匿名的なのだ。「す」「が」「や」「り」「さ」「こ」が意味をなさなくなる。匿名は集団の擬態ではなかったのだ。僕はこの子達のこと、特殊や個別を全く何も知らないのじゃないかという記憶喪失の錯覚めいた、「物語」から遊離するポイント。匿名の女の子達が彼女達の今や未来を唄う。少しでも客観的に構えれば、ちょっとした(あるいは大いに)快楽を含む嗜虐的な残酷なのかもしれない。
 
別の側面。
 

Berryz工房は、完璧である。原義通り、傷ひとつない玉のようだ。それを言うなら、Berryz工房はこれまでずっと、完璧だった。その「完璧」はどこかで、年齢ということもあって、穢れのなさや純粋さ、転じて壊れやすさや傷つきやすさをも含んでいて、総じて、脆くてピュアなもの、という印象に繋がっていたように思う。もうそういうことではない。全然そういうことではない。ぼくが気付くのが遅かっただけかもしれないが、そういうことじゃ全然ねえな、と思った、思えた。愛でる、とか、バカくせえな、と思った。「VERY BEAUTY」を聴いていて、震える高音の歌声が胸に届くとき、傷つきやすさの印象は変わらずそこにあるけれど(それが生きているということだから)、でもそれと同時に、とても強い芯の存在を感じる。Berryz工房の「完璧」の硬度は、ダイヤモンド並みに上がった。ひっかき傷がついたとして、絶対に壊れない*1、完璧よりもっとよい、素敵の結晶。言葉にするなら、そういうことなんだろうと思う。

http://d.hatena.ne.jp/takiko17/20070224/1172331409

ポイントがずれるし、揚げ足取りなどではありません、takiko17さん、なんて弁解する必要はないのだろうけれど。「完璧」という概念あるいはそういう存在に「脆さ」という属性はありうるし、あると思う。それが「完璧」≒「完全」ということで、それが全てだろうから。なんて、この言い回しはただの屁理屈ぽい。といってもこれは厳密な定義のお話などではなくて、要はBerryz工房の「脆さ」の話がしたいのでした。例えば、その「脆さ」が表層的な感受にとどまるのか、あるいは内奥にある本質的なものとして認められるのかは、わからないし、まあそれはそれで実はちょっと楽しい話なのだけれど、いわゆる認識論のカテゴリーで厳密に論じられないから回避。心的体験の観点からみると、彼女達の「脆さ」、直接的な痛い「脆さ」といったそれらは、先述の残酷の話と、もう一つ別の、何だろう、サディスティックというか、加虐感みたいなものを誘発するように思う。うむ、これは我知らず己の変態性の告白になってしまっているな。つまり、脆さは痛々しくて、精神的に苦痛であるという点でマゾヒスティックぽい体験だし、また別にそういう脆さを、そういう存在をサディスティックな眼差しで見てしまうということなのだと思う。多分これは脆さ自体をモノ的に扱うという意味で、或る種のフェティシズムなのではないだろうか、とあやふやなことを言ってみる。takiko17さんのおっしゃりたいことにおいては、「脆さ」は重要な何かでありうるけれどやっぱり一ファクターであって、引用したエントリは、さらに別のものを志向する昇華的なダイナミズムなのだと勝手ながら受け止めた次第です。それでここまで書いて「脆さ」という概念では少し追えない何かを予感してるのだが、これは何なのだろう。剥き出しとか裸とかの追体験?と疑問形で書いたが、疑問ではない堂々巡りか。
 
さてさて、よくもわるくも形而上的「物語」は惰性的な連続体のようなものだから、以上のような個体的な瞬間のポイントはすぐ回収される。少し具体的に、匿名の話なら、しみハムしみハムになる。匿名から皆名前で呼ばれる。同時に出席をとられる「「ハーイ!」」。また個人の感情や思想はメディアとして物語化する。そしてそれでいいのだと思う、というかどうしようもない。いや、ハロヲタの文脈の同一性を云々する気なんてないのだ。
まったくの余談でモノローグだが、唄は、音楽は自由だ、価値は自由だ、というのはファシズムなのではないかと思って生きている。何を担保に音楽を楽しんでもいい、という全体主義。音楽の迫害。告白すると僕は懐メロが大嫌いだ。何故感傷で音楽を聴かねばならないのか、そのようなものの機能を理解はできても了解はできない。音楽は奴隷ではない、という精液の生臭い思想と、そのことで自分が音楽の奴隷になるという奴隷根性、更に奴隷根性による当の主の全否定。一方であややが唄う「ダイアモンド」を狂おしく聴く自分がいるわけだ。というより端的に普通に音楽を聴いているという、思想と生活の矛盾。そんな自分のたくさんの矛盾を見つめ愛おしく思うことで、僕は正当化を図るのだ。そう、「VERY BEAUTY」は僕をやはり決定的に分裂させる。僕は途方にくれる。この唄が大好きだが、実に聴きたくない。色々ある、ほんとに馬鹿馬鹿しくて大事な色々。そしてまたこの曲をリプレイして頭の転調で嬉々とする。あのイントロ最高だな。