キャンペーンとしては駄目

けしからんこと:

僕のあいぼん画像フォルダが
去年の3月23日から更新されていないこと

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あいぼんの「カワイイ」存在カテゴリーの特殊

あいぼんは「カワイイ」の体現者だということ。
なんでこんなにカワイイのかよ。
あいぼんの「カワイイ」の体現は
「カワイイ」的振る舞いである。
そんなあいぼんの「カワイイ」の特殊性とは。

「カワイイ」

「カワイイ」はその内包量を増加した。

あいぼんの「カワイイ」

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ことば

リール・アダン「二人山師」

「えっ、文学的才能がないといわれるのか。若いのに思い上がった人だね君は!」

オスカー・ワイルド

私は自分の天才のすべてを生活に注いだが、作品には自分の才能しか用いなかった。

 
寺山修司「ポケットに名言を」より。

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「才能」「センス」

「才能」「センス」という言葉について考えたいと思います。というのは、ゴルファーの丸山さんがBS放送のゴルフ番組において、少年少女ゴルファーに対し、この子達は自分の才能に多かれ少なかれ自覚的で、なおかつそれを努力によって顕さんとしている、ひいては才能一般は努力してなんぼである、といったようなことを仰っていたのをぼんやり聞いて、ピコーンとしたからなのです(誤読誤解ならごめんなさい)。
 
一般に、言葉が、概念が独り歩きする、もっといえば立場の逆転とでも言いますか、その言葉をつかう者に対してバランス悪く働く、例えば支配的に振舞う(そのように見える)、という事態はしばしばあることと感じられます。そこで、「才能」や「センス」という言葉について、どうでしょうか。まずこれらは当然それ自体としては目に見えません。目盛りとかタコメーターがついてるわけでもありません。そのような数値(ここには数値化されうるという条件が仮定されています)を視覚的に確認できる装置が我々についていたらすごく便利ですよ。おまえのエロセンスは58だ、あと2あればエロ小説それも人妻モノを書ける、とか。あなたの鼻歌の才能は5よ、人前で鼻歌歌っちゃだめ!とか。感情的には残酷だったりするかもしれません。AよりBは唄を唄う才能がある、という命題について、それがものの認識や認知の話であるなら、その発言者には才能を比較できる何か、つまり「才能」があるということになるでしょう。すいません、皮肉を失敗しました。ここで一つパンチの効いた皮肉を入れたかったのでした。僕には皮肉の才能がないようです。しかしそう、図らずも、目盛りやタコメーターという思いつきの比喩が、ある一つの着想を与えてくれたように思います。つまりこうです、それら「才能」「センス」という言葉(あるいはそれら言葉の使用−流布の往還)は、それらはそもそもそれ自体としてあるものではないはずなのに、何かそれ自体としてあると、人をして思考、想像、イメージさせることを促すのではないか、ということ。
 
このような文言を聞かれたことはございませんか。いわく「私には才能がない」「俺っちセンスゼロ」。もちろんこういった発言をそのまま受け入れてしまう、つまりそのコミュニケーション的な振る舞い、側面を無視してしまうことには若干問題があるといってもいいかもしれません。自分に才能がない、という発言によってその人は慰めてもらいたいのだと判断する、ということもありましょうから。しかしそれらの発言に、認識もしくは判断の誠実さがあるということもありうると考えることは、考えること・想像すること自体の道徳的なやさしさライセンスを保証するでしょう。そんなライセンスいらんねん、などとはどうぞ仰らないでください。そんなやさしさライセンスのためにもう少し考えてみます。
 
目でも耳でも、およそ五感による感得、感性的直観によっては「才能」「センス」それ自体を捉えられない。その上で、「私には才能がない」というときその人は、「才能」「センス」それ自体が自律的にあると想定してしまっているに等しいと考えられる。そういう想定のもとに、己の才能の多寡を判断することは、論理的に正しくないものであるのにもかかわらず、です。勿論人には自信のないときもあります。人には感情があるのです。論理的な可能事などどうでもいい、心身ともに疲れきってしまい鏡の中の自分の別人のような顔にうんざりし、チョコラBBの入れ物に八つ当たりするということもあるでしょう。だけどちょっと待ってください、あなたにセンスがない才能がないことは字面以上の意味はない。ただ端的にないのです。よってそれが認識並びにそれに準じる判断であるのなら、必要以上に落ち込むこと、感情的になることは無意味です、と。いよいよ怪しい人生相談と紙一重の様相を呈してきましたが、ここにおいてやっと「才能」「センス」とはそもそも一体何なのか、というより根本的ぽい問いにたどり着かんとしているのでした。さて、あいぼんはカワイイの天才だ、とは僕の思いつきですが、この命題に分析的にアプローチすることで、「才能」「センス」とは何であるのか、何でありうるのかということを考えようと思います。勘のいい方はこの時点で僕がこの文章で何をしようとしているのかその内実に気づかれたと思いますので、仏陀のように微笑んでくださって結構です。いまいち勘が働かなかった方もやはりアルカイックに微笑んでください。ねえ、笑って!
 
繰り返して、あいぼんはカワイイの天才だ。これはあいぼんがただただカワイイと言っているわけではなく(もちろんただただカワイイという側面もありますが)、彼女は「カワイイ」ということの能力を強力に発揮している、ということであります。前後しますが、前提として、ここでの「天才」は、歴史的な「天才」概念の文脈を汲んでいる、あるいはその概念における天才の絶対性を言及する、というよりは、さしあたり比較級的な振る舞いをこそするものであると考えます。
 

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あいぼんのカワイイについて

過去ログを見たら
あいぼんのカワイイについて結構書いていた。

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これは

よくないキャンペーンだ。しかし一体あいぼんについてどう書けばいいのだろう。もっと現実的な力を持つ何かか。あるいは書くという意味で書かないことを実践するか。それは例えば責任ある無効投票のようなものだ。あいぼんがカワイイことはとても大事だし、同時に大事でない。僕はただたくさんのささいな感情をもってきた。それらの個々を思い出すことはとてもできないが、ぼんやりと雰囲気はある。記憶の仕組みが大好きになりそうだ。忘れてしまうということはきっととても素敵なのだ。忘れることはできない、ただ忘れてしまう。僕はあいぼんのことを忘れていくし、忘れてしまう。そしてそれはいとおしい。忘れてしまうということで確実にそこに何かあったことを認められる。それは忘れたフリとかじゃない。憶えていることと忘れたことの混交した記憶の総体が、のろまで愚図な「思い出」と呼ばれるのではないか。どんどんどんどん忘れて、いつかあいぼんと会うだろうその時に僕は、何かを思い出すのかどうかわからない。きっと忘れたものを思い出すのではない、思い出したものを忘れたものだと錯覚する。そうやって新しく錯誤の思い出しをしていくだろう。僕はどんどん忘れていく。いとおしいのろまと仲良くやる。そしていつかあいぼんにあいたい。