やぐやぐモノローグコンテスト#1

やぐやぐ、惰性というものも悪くはないぜ。今の俺のハロプロとのお付き合いは、惰性なんだ。惰性という表現が適切なんだ。またこの話をしてすまないが、人は正当化して生きていく、人の生即正当化だ。生きる為に正当化する、といってしまうと、生を過大視した表現で、バランスが悪く感じられるかもしれないけれど、過大ではあっても間違いではないだろう。とにかくそういうのって人が時間に生きるから避けようのないことだ。
正当化というと何かネガティブな印象を与えてしまうかもしれない。自分の間違った行いを正当化する、とかいった風に。でも根本的に正当化はどの行いにもついてまわるよ。理念とか理想とか、大義名分、何でもいい、何かを人間は行なって、それに理由やら原因やらをつけたりする、ということ。行動原理としての、思想、欲望、制度、衝動、無意識などなどたくさんたくさん。事後的に説明をする。
だから何、とやぐやぐは叱責するかもしれない。大切なのは、当の具体的な正当化の根拠!それがわたしたちには必要なんだ、と。何かないと、ダメなんだ。それを否定するつもりはない。けれど同時に、何かがなくてもいい、ということも、否定しはしないよ。
長い前置きから話を最初に戻す。悪くない惰性という付き合い方。かわいい女の子たちを見て、適当に喜ぶ。先週のヤンジャンのみきてぃかわいかったなあ。みきてぃが笑っているのを見ると、俺も笑ってしまって、不思議といえば不思議だし、当たり前といえばやっぱりそうなのかな。いやいや、みきてぃが笑って、何で俺が笑うんだ?風が吹いて桶屋が儲かるのか?行き着く先は、グッバイ正当化、という正当化。うむ、脱線した。ともかくそんな風に同じように、適当に物語を語り、適当に音楽を聴く。
惰性の感受のうちにいると、そこは凪いでいて、安心できる。何も考えずにすむ。時間の外。逃避。でも何に安心しているのだろう?それはわからない。ハロプロという夢にもやっぱり世知辛い原理が働いていて、そういうのにフィルターかけて見ないようにすること、それが安心の中身なのかもしれない。普通だな。いや普通でもいい。ハロプロに逃避してそしてハロプロからも逃避してちょっとした難民みたいだ、という自虐も冴えない。しかし「逃避」という概念の価値は随分と値を下げたよね。いや価値が高かった時期があったのかどうか知らないけれど。言葉は発された瞬間に物になる。そんな物になった言葉に人は関わる。そして延々と再生産される言葉の物。そんな物である言葉の集合・システム。それを相対化する別のシステム。間システム、超システム。その果てで言葉の神様と出会う。まあ何ていうの、全ての概念を一度ひんむいて丸裸にして、汗だくで抱き合えたらいいよね。アバンチュール。きっと皆言葉の神様になりたいよ。
さてさて、俺は惰性の機能性を功利的に勘案しているわけではない。ただただ俺とハロプロの関係・状況を反省的に叙述説明し、原理の部分では正当化しているという寸法さ。単なるカテゴリー:「独り言」「自分語り」(←初めてこの単語使った)を、やぐやぐに聞いてもらいたかったのさ。やぐやぐ療法なのさ。それで、やぐやぐは「ここにいるぜぇ!」のジャケ写みたく、看護婦ぽい衣装を身にまとって、フェンシングの剣で俺の胸をひたすら貫いてくれればいい。