510510

http://www.up-front-works.jp/discography/piccolotown/02/s_17/index.html
お触りありですか、さわって、という命令形に
抗えるボーイは挙手。ごっちんにベロと性器を引きぬかれて。
新曲のパッケージは「コケティッシュ」だと
希釈の程度がひどい。即物性、フェチから
ビルボードチャートの夢を何となく想像して、
そう、ある面でセックス、身体の優位に命を燃やし、
そう、また別の面で「カワイイ」文化への研ぎ澄まされた追っかけ、
その体現者、ごっちん。ピンク?ストライプ?
二つ縛り?ヘソピ、上体反らし、ふともも、足の指・・・
アイテムの羅列にかかりきり、これみよがし、分析的記号消費の絢爛。
 
さて、後藤真希はやはり「ハイパー」な女のコであると定義して、
つまり、無限的な実存、「女のコ」であることからもハイパー
である実存的「女のコ(実存)」、むしろ真正の実存、形容に困るわけだが、
そのハイパーは、良し悪しを別に、現象としての収まりの悪さを
隠せない。ごっちんの前に既存概念は動揺する。
原子でも分子でも何でも、それより大きい網目で掬えるか?
アイドルごっちん≠アイドル、
ロリータごっちん≠ロリータ、
セクシーごっちん≠セクシーなどなど。
何をやっても何かをやらされているという宿命的な、と
言い切れば、どこか負のイメージを促しでもするだろうか?
付け足すまでも無く、ごっちんの主体性や自発性を否定する表現
などではないにしても、強制的な同定から超越するごっちん
表現したいとしたら、こう記述したくなった。しかしこれは
一ヲタとしては分不相応な振る舞いで、論理のレベルでは
しっかり矛盾である。ただただ言い訳として、ごっちんの普段からの
「正体不明」、このコは一体何者なのだろう、魅惑の?−ブラックボックス
に対する、自我防衛機能が働いただけなのだと。
現実的に常に失敗するが、詩的には救われるという
ハイパーオナニー。