あやや考/前髪作ったあやや

NAMIDAを出した頃から松浦さんがなんか変わったよね
http://ex11.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1151577146/
 
イムリーぽいスレが。

                                      • -

謡曲−J-POPの線で
砂を噛むように…NAMIDA」を
そして歌手松浦亜弥を考えたかった。
 
謡曲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E8%AC%A1%E6%9B%B2
J-POP
http://ja.wikipedia.org/wiki/J-POP
 
謡曲の機能としての
大衆の自我の吸収−構成、その往還なんて考えは
突飛だろうか。
そこでは音楽>大衆という力関係がある。
音楽が大衆の自我を統一的にコントロールする、
というと何だか古いSFのようだけど。
 
J-POPにはそのような機能はない。
そこでは大衆の変わりに個人の自我が登場して
力関係は音楽<個人である、と。
思うにこの関係は表面的ではある。偽装されている。
というのはやはり流通されるものはイデオロギーにまみれるから、
といってしまえば、身も蓋もない。
 
でもとりあえずそう考えた上で
あややの「砂を噛むように…NAMIDA」はどう関係付けられるか
というとやはりそれは純然とJ-POPのフォーマットにあるのだけども
そこに私は歌謡曲フォーマットの残存を見たような気がしたという話で。
 
そのポイントは2点あって、まず歌詞の内容。
この歌詞はとてもシンプルだが人間に普遍的なことを言っている。
今から過去の眼差し、
人間における時間と感情の相互作用、
それに対する態度のポジとネガの絡まりあいなど。
 
そしてより大きくは、あややのタレントから。
それが何なのかはっきりわからないけれど、
例えば一つ彼女の説得的な存在のあり方
それはとても奇妙だけれどやはり厳然とあるんじゃないか。
普遍増幅器あやや
  
これらが十分要素として歌謡曲を構成するというには無論寸足らずであるし
謡曲を復古したいとかいうアンビシャスもないし
あ、アンビシャスという言葉ここで使わないとこの先
使う機会ないだろうと思うので、使ってみました。娘。LOVE
 
このシングルのセールスが振るわなかったことは
色々な要因で分析できるだろうけれど
この結果がこれからの歌手あややの活動を少なからず
方向付けることは間違いないことは言うまでもないことなのか。
前2作がこのシングルとセットにされるきらいがあるように
見受けられるけど、これは私の偏った情報収集故かしら。
前2作+このシングルの結果による未来の方向付け。なるほど。
とにかく、それがどういう方向であるのか、というのは興味深い。
GAMにその先鞭を見るのは一興だわ。
 
そして
それを占う基準のひとつであるあややのCDの購買層。
現行ハロプロCDの購買層のどれぐらいがヲタなのかと考えることの前提に
ヲタ⇔一般という見方があり、この見方が一体どれほど有効なのか
ということを我々はそれほど知っているわけではない。
その有効性がどれほど自明にみえるにせよ。
確かに強力な見方ではあるけれどなあ。もっと他の見方ないかな。
といってもそれが目的化してもしょうがないか。
 
以上ダラダラ書いてしまった。
最後に言いたいのは
この曲があややにおいてあらわれたことの喜びです。
この曲を唄うあややに私は確実に恋していた。
こういうのって初めてかもしれない。しかもそれが
あややだったということ。