ラウルVSあさみ

スペイン−チュニジア
チュニジア1点リードの後半開始から後半40分までを鑑賞。
そこまで見て最後まで見ない理由は秘密です。

                                    • -

スペイン1点目
ラウルがとてもラウルらしいゴールを決める。
ホアキンさまさまだった。
92%ぐらいスペインの攻撃ながら膠着していた試合を動かした。
2点目は快速フェルナンド・トーレス、絶妙カウンター。

                              • -
                              • -

アフリカ勢含め第3勢力(といっていいのか)が頑張るのを見るのは確かに楽しい。
しかし私にとってそれはあくまで強豪のカウンターとして
機能する時に限る気がする。
 
彼らはどのように私に所有されるかというのが一つポイントだ。
 
所有に関しては、日本代表を例に出すのが分かりやすいかもしれない。
つまり、日本代表は私に、我々にどのように所有されるのか、という例。
所有において、サッカー日本代表を応援することと応援しないことは
対ではない。応援することもしないことも所有のうちにある。
日本国籍を持っている、ということがすでに決定的なのだ。
日本国籍を持つことがサッカー日本代表の所有を決定付ける。
 
日本国籍を持つ人間が日本代表を応援しないという態度は根本的には
「応援しない」ことではない。応援しないことの成立は所有の「外」でしかありえない。
 
具体的にはこうだ。
例えば、サッカーに全く興味がない日本国籍を持つ人間は
サッカー日本代表に対してどういう態度をとりうるか?
彼は理由はどうあれ別に代表を応援もしたくないし、
そもそもサッカー自体に全く関心すらないのだが、それでもサッカー日本代表を所有している、
つまり、「(日本国籍を持つ)私の」サッカー日本代表として語らざるを得ないのである。
くどいけれど、その事態はただただ彼が日本国籍を持つことに起因する。
なので、上記のような人は、サッカー一色の今とても肩身が狭いだろうから
少なからず同情するのだけれど、「国家−法」と「所有」と「私」の関係は
論理的にこうだと私は結論付けるので、あきらめてください(ハート)!
それで、サッカー好きだけど、サッカー日本代表にあまりというか
全然いい印象をもてない人も論理的に同じ事態なのです!大変だ!
ただその人たちははけ口があるのでまだよいよね、と思う。
 
いやいやそもそも何の話かというと、
「アフリカ勢含め第3勢力(といっていいのか)」の話だったのだった。
彼らはどのように私に所有されるのか。
勿論当の国の国籍を持たない私なので、決定的なことはとりあえずないぽいが
どうだろう。
恐らく「間国家」又「サッカー自体(の歴史)」の論理からそれは決定されるだろう。
ここまで書いておいてなんだが、またよくわからない理屈を大仰に
並べ立ててごめんなさい。