特殊な事柄について

書く。
 
あややに恋をしたといってもそれは
いわゆる恋ではない。
アイドルに対する擬似恋愛を指しているのでもない。
観念的な、言うならば過去のある一瞬、啓示的瞬間とでもいったものを
そう呼んでいる。
でも一般的に恋という概念を追いつめてみれば
実はここに行きつくのかもしれないが。わからない。
 
さて
直接的にあややがその恋の対象なのかといえば
そうではないだろうと答えることができる。
 
この唄を唄うあやや、というのがポイントなのだ。
 
あややのこの2曲を僕は執拗に繰り返し繰り返し聴き浸み込ませる。
まるで少年時の音楽に対する態度のようだ。原始的感覚的音楽摂取。
しかし今や僕もそれなりに大人になった。それにつれて僕の世界の分節線は
その複雑さを(時には煩雑さを)どんどん増していく。
だから表面的に態度は同じだとしても、その内実は全く異なっているといっていい。
どうしてこのあややの曲に対して今僕はこんな態度をとるのか?
このような態度自体をここ数年来ずっととってこなかった僕が。
それは何もハロプロに限らなくて、音楽全般に対してそうだったのだ。
世界に対する、音楽に対する意図的態度。
 
僕の音楽論なんて土台大したものではない。
といっても僕は僕をただ徒に貶めるつもりはない。
ポストモダン的状況においてモダンを戦略的にさけび続けることが
相対主義に対して取り得る一つの有力なアプローチであるのだ。
 
音楽(的状況)に恋することは音楽それ自体への冒涜だ
と僕は言う(言い過ぎる)。これは音楽科学の理念的前提である。
音楽は人間の感情、思念、想念などにそもそも関係ない。
(「音楽」という言葉自体がイデオロギッシュだ)
 
僕は僕の中において、あるレベルでは矛盾し、あるレベルでは一貫している。
僕は、この唄を唄うあやや、に恋をしている、という時に。
 
瞬間は永遠を反映する。
瞬間の中に永遠がある。
ある一つのポイントに他の全てが連続している。
他ではありえない、その集約点としての必然。
僕と世界の連結点。
それがこの恋である。
 

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もう少し一般的客観的な観点から
次は書けたらいいな。