もぐもぐもぐもぐめぐるめぐるかぜ

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ラスタラスタピーアって何だろう?とても素敵な語感ですね。口ずさみはしませんし、調べもしません。ただそう思うのです。星野さんの日記を見ながら書いています。
日ごろから会話の際に、自然なダジャレを言うことだけは避けよう、としています。ダジャレを言う時は「これダジャレでーす」という声の抑揚や表情を付加します。道化、でしょうか。いやそうではない、もしそうだったら人間皆道化じゃないか、と思いたい、かというと、さあどうでしょう。それはともかく、コミュニケーションを円滑に回収しやすいように工夫する思いやりマインドの発揮です。自然なダジャレはそれがあまりにも自然であるがゆえ、それを聞く相手に「ん?これはダジャレだろうか?はて?身ぶりや文脈からいうとダジャレではない。唐突過ぎる。でも語の並びからは確実にダジャレだ。それダジャレですか?って聞こうかしら。でも聞いていいものやら?でもでも」というエンドレスの懐疑、内省を促してしまうのです。そして大体そういった脳処理をしている間に話が先先へと進み、結果的にスルーしたような形になる。スルーはスルーでとても歯がゆく、かつ記憶はこういう時に嬉々としてその意地悪さを発揮するものですから。歯がゆさは記憶を思い返すことで過剰になっていく。こうして「あれダジャレだったんですか?どうだったんですか殺人事件」の引き金になるのです。自然なダジャレを発してしまった方はどうかというと、やはり同じような心のサーキットを辿りますので、記述の繰返しはやめておきましょう。キーワードは殺人事件です。
自然なダジャレという言い方は実は的をはずしている。まず一般にダジャレは得てして意図的だから、自然ではありえません。この場合の自然とは、これは机だ、とか、暖かい夕日でほらぁお部屋がぽっかぽか、とかいったような発言の類を指して表現するもので、いわばダジャレに関する意識から離れていると想定されるところの透明なコミュニケーションの一です。しかしそんなものがあるのでしょうか。そんな透明なコミュニケーションと意識があるでしょうか。ありません。ダジャレはそこここにあるのではなく、明確に、私たちの心の中にあるのです。足元のカエルが夕暮れ染む川原でひょこひょこ暗がりに潜まんとするところを見てしまった。「カエルが帰る」。助けてください。何と表現すればいいのでしょう。「カエルが帰る」の後者の帰るの「か」を発音しそうになった時点で、「帰る」と発音するとまずいことになると思い、それはごめんだ、「帰らんとする」などと言ってしまい、直接は避けたけれど、やっぱりもやもや連想させてしまう、更には、どうやらこの人ダジャレを避けようとして「帰らんとする」なんて発言してるんだ、などと思われ、本末転倒だ。「帰途についてる」「gohomeする」といったところで同じです。これは、明確に(流行っています)、私たちの心の問題なのです。いや、私たちの、というか、私の問題でしょうか?だとしたら、ごめんなさい。ただ、これがどういう状況かについては、あるいはその辛さについては、分かっていただけたのではないでしょうか。
あと、自分がふと思いついて使ったギャグぽい何かが、それは主にネットで使うところのギャグですが、本当に運命の偶然で、すでにテレビなどのマスメディアにおいて誰か芸人さんによって言われてた、ということを知った時の苦みばしった顔を見て欲しいな、と思います。上の画像は亀井さんですが、本分とあんまり関係ありません。