劇場「音楽の対価の前」

4月頭ぐらいに「音楽税」の話が出てきて、うへえとなり、色々考えたり書いたりしてたが、タイミングとしてはもう5月なので、2度目のうへえ。
「音楽税」計画の詳細―訴えないでやるから金を払え | TechCrunch Japan

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税という言い方はまず鈍臭い。悪印象、反発必至だろうから。とりあえず、この記事http://www.portfolio.com/news-markets/top-5/2008/03/27/Warners-New-Web-Guruには「fee」とあり、「tax」でない。まあ言い方はともかく、これが一つの強力な合理たりうるのかどうかって話で。例えば、損害賠償訴訟を一件々々いちいちしていく、ってのは、端的に言えば経済闘争、法的権利闘争で、訴訟する方もされる方もそれぞれの理想を理念を意志を、それらにおける一貫性をきちんと保つ限りにおいて、一つの合理性をもつ理想ではありうる。コストはとりあえず度外視。ロマンティックに言い換えれば、ネットテクノロジーの威力によって侵害されたと想定される音楽産業にまつわる諸権利を含めたたくさんの事項の中で、何をどういうバランスで大事にするかとなった場合、音楽を、そしてそれらと関連する文化そして、そのたえまない継続こそがそれだという主張を、権利者、制作者、視聴者など関係者で共有しそれを一つの根拠とすることで、法的経済的に整合性をもった清算が可能になるということ、となりましょうか。勿論こういう主張は理想的に過ぎる、あるいは悪く言えばタテマエ的でありうるし、立場によってその内実がまったく異なるだろうので、そもそも共有という言い方自体が無意味になるということは想像できるし、実際今状況としてはそうなのじゃないか。で、まあ話戻すと、コストに焦点当てて、訴訟のやりとりするの色々費やすものが実際多いだろうから、じゃあ音楽の対価として一定の金額をISP経由でユーザーに負担してもらえませんか、feeをpayしてくれよ!痛みわけみたいな感じでね、という話と解釈すると、どうだろう、経済的な合理はあるかもしれないけれど、やはり釈然とできない。つつけば、課金するなら課金するで、何に対しての課金なのか?音楽のデータの流通へのそれなのか?デジタルデータの流通に対してはすでに契約して継続的にお金を払っている、ということになっているはずだし。プロバイダの接続技術サービスと回線帯域の使用料、として。その上で流通量にスポットをあててみると、これに関しては、ヘビーユーザーのヘビートラフィックにはその量なりの金額を、といったお話があったりするらしくて、つまりデジタルデータの従量制だけど、ある契約回線端末におけるデータトラフィック量を技術的に算定できればこその話としても、それができるなら、定量性という観点においては、なるほど一つの合理として説得的であるだろうけれど、デジタルデータとしての「音楽」の流通という話ならば(この場合はワーナーの音楽へのアクセス可能性に関してということか)、それはひとまず定性性に焦点をあてるのみで、定量性云々とは別問題じゃないのかって、要は、デジタルデータとしての「音楽」の流通自体に課金することは技術的に困難じゃないか、と。極端な話バイナリデータとして「音楽」と「画像」は区別できるのか?音楽を「視る」共感覚の人々はどうするの?僕が音楽を聴いてるってどうやってわかるの?とか小学生レベルのいちゃもんが実に鈍い打撃になりうる。いや課金対象がわからないので先走りであるけど。
結局のところ自分が何を一番強く感じるかといえば、音楽産業、業界の今まで稼いでたあがりが減って何故それと同じかそれ以上あなたたちは儲けないとだめなのか、それでそのつけみたいなものを何故こっちに回されるのかということで、よしネットテクノロジーの興隆と該当業界の売り上げ低下に関して、定量的な相関性因果性を見て取ることができる(その可不可はわからない)としても、この点できっといつまでたっても納得できないのじゃないかしら。ともあれ、こういう形で一定の金額をその場しのぎで徴収補填していってもキリがないのは目に見えてるし、異議を申したくなるのは最早必然的で、あと著作権の話も大きなものとして依然あるし。根本的には、人間存在とか音楽の存在とか、それらの関係性、それから所有の問題、権利の問題などの諸規定自体の存在そしてそれらの共有可能の話、要は何か問題を現行法でこうこうですから、っていうだけじゃなくて、法が法たる可能とそれからその共有可能の話として考えること、そういう問題なのじゃないかってことなのだけど、当然話が大きくなる。
権利者の人たちは本当に著作権を自体として大事に思ってるのかと疑われてるのですよ。単なる手段じゃないのか、とかね。CD音楽産業が終わっても音楽産業は終わらないなんて話もある。デジタルデータは宣伝だ、ちんどん屋が行き行きばらまくビラだ。他の方法で幾らでも儲けられます。複製技術これからどんどん進化していったらどうするんだろうか。多分そうなるでしょう。立体物もコピーできるようになるぜきっと。コピーできないもので商売する?インターネットはどんどんデジタルデータを流通していく。複製技術、流通技術の業界と既存の著作権者の業界との闘いだね。どっちかがどっちかに吸収合併かしら。そこまで俯瞰したら、著作権はユニークなファンタジーと化してしまうわけで。言えばコンテンツホルダーという権利者のひとたちはコンテンツという強力な概念の可能性を鑑みるわけにいかない。その特質としての、複製と流通によるアクセス可能性と言及可能性をあえて無視するしかない。それなのにコンテンツコンテンツと自分たちで言うから混乱しながら自滅していく人のように見える。文化をたてにしても、新しい音楽無くなってもいいですという人間もいますよ。残るものが残って消えるものは消えてきたんじゃないのか、そしてそれは同時に逆の事態を強力に積極的に主張する。経済的なインセンティブ?音楽をなめるなよ、と。そんなものなくても音楽は現象として成立する。
最凶最悪のテロルのシナリオはこうだと考える、心ある音楽家が、その全ての音楽を世界から引き上げること。誰か困るのか?「No music,No life」という念仏の意味がここにおいてやっと発揮されることになるでしょう。これは脅しなんかではないし、音楽家は傲慢でない。作る人は聴きながら作ってきたし、聴く人は実に作りながら聴いてきた。協同がコンテンツの可能性でその軌跡が音楽の歴史でしょ。

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参考リンク
http://jp.techcrunch.com/archives/the-music-industrys-new-extortion-scheme/
http://wiredvision.jp/blog/yomoyomo/200804/200804021130.html
http://d.hatena.ne.jp/heatwave_p2p/20080329/1206752150
http://d.hatena.ne.jp/heatwave_p2p/20080404/1207311025