iina!怪奇ブロガー浦見ヒロシ。いとしの。
 
浦見ヒロシさんへ。初めてですね、はじめてお手紙します。といってもとりたてて言いたいことはないの。なので以下には、特別勢いのないままただただとりとめなく何事かを書いてしまうだろうと思うのです。でもごめんなさいね。
とにかく色々なことが起こりますものね。心はただでさえ敏感なのに、そこここのよしなしごとにいちいち反応するだなんて、何だかぐったり疲れる有様じゃないですか。回避できる徒労についてはできるだけ回避したいものですね。生活における大小の物事を判断したり、優先順位を決めるメーターに、日ごろからの疲れがどっかりと寄りかかる様子を思い描くことはきっと容易いことでしょう?
誰かが誰かのことを傷つける、なんていうことはよくあるし、きっと未来永劫いつまでもあるし、そしてそれらはいつでも決定的であるのだと思います。決定的でないと、割りが合わないように感じるのですよ。割りが合わないなんて、ちょっと変な言い草かもしれないけれど。でも、だって、心の繊細さ複雑さなんて非合理なもの、とっくの昔にコミュニケーションによって、半ば自家中毒的に、そしてついにはそのまま死滅してしかるべきだったのじゃないかと思うから。軽んずるにはあまりに重く、非合理に過ぎる、脆弱な心は、そんな風に映ります。いえ、特に進化論や淘汰説なんて大きなスケールを主張する根拠も無いですし、実のところそれとはまったく逆の形、つまり、人類の心はどんどん繊細に複雑になってきたしなっていっていくのじゃないかしら、巨視的に見るに私は特別な知識を持ちませんけれど、今そんな印象を直感的に持っていますし、その印象はたくさんの人々に共有されているのではないでしょうか。
私たちはそういったコミュニケーションとしての傷つけあいにおいて、その主語にもなりうるし、対して目的語にもなりうる。それが、どっちかがどっちかだなんて簡単に判別できる程甘っちょろい事態なのかどうかは何ともわからないのですけれども、傷つけることと、傷つけられることにどれぐらい相関があるとしても、そういった事態が私たちにとって決定的なものでないのなら、一体誰がコミュニケーションなんて望むものでしょうか?単純に報われないじゃないですか?勿論これはあまりにもネガティブで偏った見方ではあるでしょう。だってちょっと想像するまでもなく、コミュニケーションにおいて、優しくされたり、優しくしたりということがあることを私は経験的に思い出せるからです。それに、もっとたくさんの個々に意義をもったコミュニケーションというものはあります。その上で、そういったポジティブとネガティブがバランスをとることに躍起になっている、という考え方は一つの知恵であると思います。ここであなたはこういうかもしれない、僕はコミュニケーションなんてちっとも望んじゃいやしない、なのでそこで起こるであろうポジティブな何事もネガティブな何事も望んじゃいない、と。それはよそから見れば、ただの強がりや欺瞞と解釈されうるかもしれないですけれど、やはり知恵として一つの洗練であるだろう、そう思います。あなたは「ただ」ブログを書くし、「ただ」コンパに行っては沈黙を貫くのです。いや他に理由や意義があるのかもしれないけれど、それは私にはわかりません。
私が世界へ関与するすることなんてとてもちっぽけで孤独です。そしてそれはそのままあなたもきっとそうでしょう。そうかしら?みんなもきっとそうかしら?