あまり実際的な話ではない

「一回性」ってのは、パラレルワールドを可能的なものとして許さないといけない、そういう逆説を孕むのではないか?もうちょっと厳密に言ってみると、そういう逆説を孕むということを想定したら、パラドックスパラドックスとして見えてくるので、考え方としては便利ではないか?とでもなるだろうか。
 
帰納」とか「因果性」もかな、それらの否定というと、つまらなくなるかも。
 
誰かがある毛生え薬を使うこと、その誰かが別の毛生え薬を使うこと、その誰かが毛生え薬を使わないこと・・・。毛生え薬の効能(毛を生やすことが目的)を調べるにあたって、これら無限の可能性を、実に「同時に」比較することに重要な意味があるという考え方は全うであり、そしてこれこそが「一回性」の逆説的内実を示唆するのではないだろうか?「同時に」「同条件で」「同対象における」「同効果」を比較する事ができないことは、有限な人間には、本当にラッキーだよ。
 
「一回性」は認識でなくて、倫理である、とするとこのパラドックスからは回避される、ような気がする。例えば、希望になったりする、かも。
 
ベンヤミンの「アウラ」に関しては、まず彼の歴史哲学を考えなければならないのでは?という思いつきは、ハーバーマスの彼への言及をよくわからないままにしておいたくずかごから出てきた。意味があるかどうか分からない。
 
例えば音楽の神様(的存在)を想定してみる。音楽の神様(的存在)は全知全能で、外部(音楽の神様の「非」対象)が無い。それ自体として、全ての音楽を知っているし、全ての非音楽を知っている。音楽の神様にとっては「同時で」「同条件で」「同対象であるところの」特定の音楽の「同一性−非同一性」を見極める事なんて朝飯前です。これは人間には出来ない。人間は「時間?」=「歴史?」=「心?」から逃れられないから(時間の非対称性って物理学一般では公理?)。
 
音楽を「新しく」作ることは神様にしか出来ない。人間(個人)は、端的に全てを知らないので、その全ての外部に生まれるはずの新たな「新しい」ことを知ることができないから。しかし逆に同時にまったく同じ理由で、人間(個人)にとっては、全てが「新しい」ものでありうる。これが経験的な認識レベルでの「一回性」の一つのギリギリではないか、と思うが。
 
一つの可能性。人間(個人)は、可能的にバベルの塔を作るみたいに、神様に近づける。たくさんの要素を捨象する事で。「音楽」をデジタル情報の羅列で可能な限り追い詰める、など。
 
神様想定から、錯誤としての「文化(コード)」を演繹できる。要は、くくるということ、カテゴライズすること。これは人間(個人、集団)にとって便利だ。でも、認識の問題というよりは、コミュニケーションの問題が重きになるだろうか。
 
一つの可能性。人間(個人、集団)は、可能的にバベルの塔を作るみたいに、神様に近づける。たくさんの要素を捨象する事で。「文化(コード)」という大きい経験によって。
 

                                  • -

遠くで参照させて頂きました、という体で紹介
 
http://yomayoma.tumblr.com/post/20075674
http://muse-a-muse.seesaa.net/article/44791776.html
http://d.hatena.ne.jp/k11/20071001
http://d.hatena.ne.jp/k11/20071014
http://mangasick.cocolog-nifty.com/alta/2007/10/post_80e2.html
http://tenonaruhouhe.seesaa.net/article/55885917.html
http://semiprivate.cool.ne.jp/blog/archives/000722.html