ごっちんの新しいアルバムはとてもコンセプチュアルで、ジャケから、出てくる音、聴覚印象のレベルまで統一的だ。時系列でいえばここ一年強の総括のような作品として捉えうる。それは後藤真希を外的な観点から高濃度に作品化したものだったといえないだろうか。そういう意味で、好き嫌いはともかくも、一個の有意味な作品だなあと思った。
 
どちらにしても僕はごっちんの規定性を依然ハイパーだと見てる。なので「エロかっこいい」「セクシー」も「原色ギャル」(懐かしい)も、お天気お姉さんも、良くも悪くもごっちんがそこからはみ出る対象でしかないと考える。個(ごっちん)が類に先立つなんていうと、大げさかもしれない。後藤真希からはみ出される当の類的諸概念、対象は、その都度意味をずらされる。傾向的には大概パロディーになる。ここで僕はごっちんの「本当」の何ほどかを、知っている「フリ」をしているのである。そんなものわかりはしない。
 
ごっちんハイパー、ごっちんアモルフという楽しみ方は、実に無責任で楽しい。ごっちんの、己の自我や実存への関心が、見えない、わからないからそうなのだ。何かしらそれに関連的な発言があっても、ごっちん本当にその事に関心あるのかなあなんて、ほほえましく思ってしまい、それって十分、彼女には、あるいは彼女の人間には、不本意で失礼な態度でありうるけれど。ともあれそれは彼女が嘘ついてるってのとは当然全然違う。
 

あたしははっきり言って冷めてないよ
クールでもないよ、セクシーでもないよ、子どもなんだよ

を思い出した。最近、ブログやら、コンサMCやらで、暗示的な含みのある発言を繰り返してるみたいで、そしてそれはいつもと全くトーンが違うようで、上記の楽しみ方を心底脅かす。ドキリとする。別に意図的に彼女の人間(実存、身体性など)を忌避しているわけではない。繰り返してそういう諸々がごっちんの後ろにちぎれて置いてかれるのを見ると愉快なだけ。なので、彼女のハイパーを脅かさんとするものを恨めしく思ってたりするのかも。
 
ごっちんは表面的には「子ども」の反対の「大人」になったのかもしれない。でもそれはあくまで表面的に感じる。ごっちんが自分の後ろ、「子ども」や「大人」や「セクシー」や何やらかんやらを引き連れて歩いていく。そんなイメージ。