100年後のお前たちへ。
まず、「お前たち」だなんて、えらそうに言ってしまってごめんなさい。誰でもいいが誰か特定の個人を「お前」と呼ぶのには、パワーが必要です。なので、虚弱な僕は普段「お前」と言いません。あと僕がとてつもなく坊ちゃん育ちだというのもある。それは、選ぶ選ばざる、好む好まざるに関わらず、相手を「お前」と呼ぶ必要のない、コミュニケーションの中で暮らしてきたということを意味します。飛躍して、「お前」は決定的には他者が要求するのではないだろうか。泥棒が、外人が、宇宙人が攻撃を仕掛けてきたら、その人たちに向かって激しい調子で「お前」と叫ぶ、その様子は割りとイメージしやすい。その言葉が意味として通じるか通じないかは別の話ですし、何といっても、「他者」であるということは、そこに相互理解の前提・基盤、遡って原的なコミュニケーションのそれらが決定的に成立しないということを積極的に認める、ということを示唆します。コミュニケーションが成り立たないところにこそ、コミュニケーションが求められるのは逆説的ではありますが、なかなかその種の議論の核心をついているのではないかと考えます。でもこれはまた別の話です。勿論「お前」は日常的に使用されている、ということを僕は一つの常識として受け止めています。これは僕が常識人ですよ、という嫌味なアピールです。うんこ。
 
もともと敬称であったという「御前」の通時的言語史的変遷はそれ自体なかなか興味深いが、ひとまず置いておきましょう。さて100年後のお前たちへ。お前たちの時代においては、ネットとリアルの二元が完全に分断しているだろう。技術によって乖離していく二元は、ある時決定的にちぎれることになる。ネットはどんどん拡大していく。リアルに回収されていたネットがいつからか回収不可能になり、その拡大の加速度はいよいよ天文学的になる。リアルの人々はまずボートピープルさながらになり、その人口を減らしながらもやがてレジスタンスになり、ネットに対するテロルを起こしたりもする。すやすや眠るネット人間の顔の上にきばるだけきばって脱糞しなかったり、セルフ歩行者天国をバンバン作ったり、季語を入れなかったり、もうそれはそれはおぞましいまでの悪事悪行非道を働きます。だがそれらもやがて空しく潰えてしまう。何故なら、全部ネットでできるからです。リアルは全部ネットに回収されました。といっても、お前たちは何のことだかわからないだろう。なぜならもうお前たちにはネットしかないからです。何だ?リアルって?ネットって?とお前たちは疑問に思うが、それもたいした疑問ではないだろう。お前たちがネットなのです。
 
最高の科学技術を不完全に定義すると、それは完全ヴァーチャルリアリティである、造物主になることである。あるいは、自己言及の完全なコントロール。完全な対称性。デジタルの記述による量的拡大は無限に漸近的に迫り、そしてその質を変える瞬間がビッグバンと呼ばれる、としか100年前の僕には言いえない。僕は人間で、人間は自己言及を完全にはコントロールできないからです。
 
さて100年後のお前たちへ。僕は今日からお前たちのことも念頭に置きながら、ネットに文章を残すことにします。別にこれといった意味はない。22世紀にも歴史学者は存在しうるだろうが、今の歴史学者が意味するところのものではないだろう。まあ例えば、ゴッドハンドし放題だからです。それで簡単に言うと日記(的な何か)を書いていこうと思ったのですが、この文章を書いたことで少しく満足してしまったので、書かないかもしれません。そうそう、リミックスが一つ終わりそうです。つまりこれは宣伝なのでした。