娘。オーディションをエンターテインメントとして楽しんだこともないし、それ自体としてはほぼ何の関心もないということは、俺の何の欠落を示すのだろうか、とシリアスに悩むふりを尻を掻きながらした。「シリアス」この単語はなかなかウィットに富んでるぜ。「尻」に「ass」だぜ,hahaha、と「hello,Tom.I'm Ken」なハシが転がってもおかしい英語初等のミドルティーンエイジャーですら敬遠するであろうネタに、ガチムチで食いつく俺。早速「尻」「ass」「シリアス」でググッてみたのだけれど、「尻 ass シリアス の検索結果のうち 日本語のページ 約 695 件中 1 - 50 件目 (0.42 秒) 」って結果が弾き出されて、これは多いのか少ないのか、多くても少なくてもどちらにしても・・・何だか空ろな気分に急になってきたので、前向きに696件目を飾ることを喜びたいものです。
さて、テレビは全部ウソだ、というメディアリテラシーの極端(というかリテラシー以前、あるいは放棄)は、人を洞窟で全情報遮断のうちに過ごさしめるには不十分であるだろうが、この場合、「テレビ」だけが全部ウソなのか、はたまた「テレビ」を情報のI/Oの象徴とすることで、ひいては情報一般を、その可能を、軒並みウソとしているのかどちらであるのかが一つ大きな問題になりうるであろうことは、想像できなくはない。それはあくまでこの綜合判断が明かされ試されることに耐えうる価値をもつ命題であることを前提としているのであるけれども。そもそも「リテラシー」に何か意味があるなら、それは自己言及の可能へと求められるのではないか。例えば「テレビは全部ウソだ」はホントかウソか?というような問いは、リテラシーとしておよそ一定の有効性を持っていることが期待されるだろう。

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情報はモノ化し、かつて貨幣について心配されたと同じように物神化している。