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メモ
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・ストーカーと何が違うのか
直接的か間接的かは、量の問題であって、
質的には同じではないのか?という自己批判。
もっと根本的には人間をアイドルという偶像商品として消費していることに
必然的といってもいい非合理があるのでは。人間を非人間として扱うこと。
消費社会の人間性の非合理。交換の暴力へ。
・加虐感に苛まれること
・技術、インフラとしてのネット
技術批判の可能
例えば、技術によって媒介変容された人間精神自身が
当の技術を批判できるか?
・無邪気にハロプロを楽しむことはできなくなる?
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・道徳を持ち出すことができるのか
・方法論としての道徳
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・背景にある権利闘争(幻想)、擬似相対主義
「人に迷惑をかけなければいい」
「個人の自由」
「人それぞれ」
エクスキューズはあれども、行為の自律的な原理がそこにはない。
→逆に「人に迷惑をかけるから○○をしない」ということはどういうことか
反動的にみえる現象として−勝ち組負け組の二元論。
価値の多様化は見せかけ、表層的なものではないのか?
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・アイドル≠人間、人間であることの禁止
それは成立しにくくなってきた。テクノロジー(という制度)によって暴かれるから。
元来ハロプロにおいては或る種の生々しい人間性が
いろいろな意味で緩衝材として機能していた。
→「アイドル≒人間」論という救済措置
→「人間性」のリアリティ
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・ハロプロとヲタの非対称性
これは「信仰」から要請される認識である。
ここにおいては、お互いが他者であると想像できる。
この場合の他者は、例えば、機会あらば握手もできるのに、
一次的なコミュニケートが絶対成立しない相手といったところ。
ハロプロは与えられる。ヲタは原理的にそれに関わることができない。
・非対称の侵犯
ヲタの越権行為
↑
↓
・ハロプロとヲタの対称性
お互いが(例えば)人間である。仲間である。相互依存しうる。
共利共存。人間のコミュニケーション。→道徳を持ち出すことができる地平
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・アイドル=人間という矛盾(というギリギリさ)
アイドル=人間という同定も実は(新しい)信仰においてしかありえない。
それは同一律の破壊だ。アイドルは人間でありえない。
無論それは極端な判断ではある。
「アイドルだって人間だ」という認識で現状において一つバランスがとれる。
そしてそれはハロプロにおいても芸能戦略的にとられてきたバランスだ。
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・ハロプロに何を求めているのか
ハロプロ物語の人間臭さ。(擬似)恋愛、即物性
ファッション
・「青春」の代理機能、代理行為
箱庭療法、ミニチュア
「人間らしさ」の補完
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ヲタの戦略
・開き直ること、なぁなぁでやること、ぎりぎりでやること
・覚悟すること