歌がみんなを近づける

やっと「松浦亜弥」に追いついたのか、と考えるとヘトヘトになる。
あややヲタの領域に入れた気がしたが、気がしただけかもしれない。
 
×3を最近よく聴く。
ずっとこのアルバムの「あやや」を勝手に嫌っていた。
あやや」≠「あやや」と捉えたからだ。
その「あやや」はとてもつまらなかったし、鼻につきさえした。
 
あやや」→「松浦亜弥」という関係図式は、
幾分単純化されたきらいがあるとはいえやはり
彼女の道筋を示し切る説得力を持っているだろう。
特に歌手としての側面において。
彼女の歌手としての比類なき技能の高さは元より周知であったとしても
あやや」にしか唄えないもの、「松浦亜弥」にしか唄えないそれ
といったような区別は尚有効であるだろう。技術論に回収されえない
ハロプロの物語性。
 
ケースとしての「松浦亜弥」はハロプロにおいて普遍性を持つ。
それは女の子≒ハロプロに必然的についてまわる事象だ。
「何か」から「何か」になるということ。
最もあややの場合は、例えば巨視的な、「ハロプロ」と「あやや」といった
直接的連関で捉えることもできるだろうけど、それは特殊であり、
他の機会を俟つ。
 
ともあれ
上記の能動図は、ある意味予断を許さない切実さをはらみながら
現在進行中である。それは強制感を携えている。それはハラハラさせる。
 
しかし
畢竟ずるにあややハロプロにいる限り永遠に「松浦亜弥」になれないだろう。
多分何度となく言われてきたことだと思う。
松浦亜弥」は言ってみれば超越的な理念で、
それはハロプロがその物語性ゆえに創出せざるをえなかった着地点だ。
あやや」→「松浦亜弥」という物語において、本人も
ヲタもずっとずっと分裂していく。そこに不幸はない。
 
この間のコンサートでは
その理念の方の「松浦亜弥」を追求していかんとする
制作陣、松浦亜弥本人を見ることができたのだと思っている。
 

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という観念的お話でした。
 

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別の話。
 
毎度コンサートに行って感心するのは、観客の総体的なレスポンスだ。
どうやってまとまったにせよ、もうそれは一つの強靭な意思だ。スイミーだ。
それでも今回のコンサートでは、レスポンスの空白がとても目立った。
既存の観賞作法では手に余ったという感じだった。
春のコンサートはレスポンスに対して強制力があったと
聞いたような記憶がある。DVDまだ買ってないなあ。
とにかく
その空白を、表面的なものであると考えるならばまだいいとしても、
ヲタがあややのコンサートに継続的に何を求めているのか
(広くはハロプロのコンサート全部に当てはまるだろうけれど)
という問いに結びつけるに至った時、大きな問題になるのではないか、
といったことに少なくないナイーヴを寄せていたのが
今回のコンサートの演奏形式面でのバランスの表れではないでしょうか、と。
といっても2点で、打ち込みドラムと、過去の有名あやや曲のメドレーが
それです。例えば生ドラムだったら、観客は更に観賞しにくくなるのではないか?
とか、有名あやや曲やるなら、カラオケでそのままやった方がお約束として
強固に成り立つから、とかね。まあ些事かこれは。
 

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