くどくど
何度でも書くが
真相は経済の引っ張り合いの均衡点に
ただ立ち表れるだけなのだ。
そこには経済的なコミットメントしか
意味がない。それも有効であるには巨大なそれでないとならない。
そしてコミットメントすればその時点で真相は
コミットメントされた形で立ち現れるだろう。
それを前提に以下を書く。
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こういう状況では毎度のこと、
オフィシャルのコメントを見ると空しくなる。
ここには「個人」の価値が成立しえないからだ。
こんこんがまこっちゃんが判断しコメントを出す
というこの出来事に、彼女達の主体性は当然ながらない。
これは、彼女達が本当に自発的にこれからのことを上記の旨
考えているかどうかとかとは全くの無関係な出来事なのだ。
つまり、一字一句この通り彼女たちが語った、
そしてそれを書き起こしたのが、このコメントであるとしても
やはりそうなのである。
そこには乖離があり、皆がそれに程度の差はあれども
気づいている。
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じゃあもし直接こんこんやまこっちゃんの口から
この事を告げられるとしたら?
こんこんが、まこっちゃんがわざわざ家にやってきて
直接私に全てを明かしてくれたら?
実はそれでも事態として根本的には何も変わらない。
つまり彼女らもそして我々も遍く経済の奴隷なのである。
主体性は奴隷の主体性なのだ。
ところでこの場合の「経済」は広義の「経済」である。
それは「交換」の総体である。
「交換」の総体が我々の全てを規定する。
これが極論であり、私の前提である。
何の前提か?
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一モーヲタの自由意志の可能の前提だ。
この前提に立って私はこう考える。
私はどこで決着をつけるのか?
どこに気持ちを定めるのか?
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「奴隷たちよ、生を呪ってはならない」とランボーの謂い。
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こんこんとまこっちゃんにいずれ会えなくなることの寂しさ。
こんこんとまこっちゃんをずっと見ていたいという気持ち。
こんこんが、まこっちゃんが決めた彼女たちの未来。
モーニング娘。のこんこん、まこっちゃん。
二人とどうやってさよならするのか。
それは一時的であるにしても、またいつか会えるとしても
娘。のこんこんとまこっちゃんはもういなくなる。
モーニング娘。の今後のこと。