再・一モーヲタが考える音楽→

音楽センス競争、なるほどねえ、って感じ。
トムとジェリーにいわせれば仲良くけんかしな、だ。
あれは別にトムとジェリー自身が言ったわけでないが。
それに別にけんかしてるわけでもないし。
さておき、私も類に漏れず件の競争に参入しておるのだろう。
(そんなこと言ったら皆そうだろう、と突っ込まれるかもしれないが
皆そうだろ?と言っているわけではない)
ともかく、その良し悪しに関してはひとまず置いておいて
聴いている音楽などを開示することで己のセンスを知らしめようとする。
それは直接間接の言及によったり。
はてなで言えばキーワードだし、「はまぞう」だし、
ほかでは音ログだし、last.fmがその道具としてある。
○○バトンてのもそうかね。
といってもそれは別に明確な意思を伴って、なんてわけでは勿論ない
と言っておきたい。何故ならそうでないと色々しんどいからだ。
飛躍すると、無意識のものは無意識のものでいいじゃない、っていうことだ。
でないと、やがて神経衰弱になる。でも私は無意識が嫌いだ。理性の宿敵。
それはどうでもいい。
 
ただの自己顕示欲、と言ってしまえばとても楽なのだが
あえて「センス」という言葉に絞って考えてみる。
 
「センス」という言葉がとてもとげとげしくなったと思う。
最近とみにそう思う。昔はよかったね。いや昔はそんなことなかったはず。
昔っていつかというと、ほんの2,3年前ぐらい。
「センス」とか「才能」とか、あと「感性」とかもかな。
勿論それ以前からそういう言葉、概念自体はあったわけなのだが
これらの言葉に込められるものが大きくなっていってるというか。
この言葉・概念自体に何か価値があるかのような使われ方を
しているような気がして、それが軽い違和にまでなっている。
 
これらは目に見えない。当たり前だ。見えたらヤダし
見えたら価値が無くなるのではないか。
 
「客観的なセンスメーター」が全人類に配されるとどうなるか。
 
「ちょっとちょっと奥さん、あの人見て見て、やーねー
あの人絵画センス15よ、15ってオホホ、たくのご主人の半分以下ですわよ
やーだわオホホ、あんなに立派なヒゲを生やしてらっしゃるのにねえ」
 
ここで言いたいのは、
こんなクラシカルなご婦人今時存在するかよってことではなく
要するに、例えばヒゲが生えてるか生えてないかとか
足が長いとか短いとかそういう次元、
視覚で認識できる次元において、センスが確認されうるという事態であるが。
しかし待たれよ、例えそれを認識できたとしても
絵画センス30と絵画センス15どちらがいいか
という判断が実は厳然と一つのセンスによっているのだとしたら
これは無限遡行におちいってしまい、元の木阿弥なのだ。
だからこの「客観的なセンスメーター」は
その示す数値が高ければ高いほどいい、センスがあるということが
絶対的に保証されていなければならない。絶対的ってことは
文化も時間も越えて普遍にってことだ。
 
大分まわりくどいが。
さて人が「センス」という言葉を使うとき、つまり
何がしかの「センス」を判断せねばならない時
論理的にはこの絶対的「客観的なセンスメーター」がないと
判断できないはずである。あくまで論理的に言えば、だが。
しかし勿論人はそのようなものを「客観的」には持ち合わせていない。
というか持ち合わせようがないわけだ。
となれば人はどうするだろうか。
 
根拠としての「主観」を引っ張り出してくる。
 
で、問題がドンドンずれていきたがるし
私はおしっこがしたくなったので
結論なしに終わります。かわいい女の子の画像を貼れば
皆許してくれるはずだから。
かわいいセンスメータースイッチオン!