yomayoma2006-03-04

おい誰かそろそろ止めたほうがいい、真剣な話だ、こんこんのことだ、こんこん、紺野あさ美、これはヲタの問題にとどまらぬぞ、アダムとイヴの楽園追放から向こう何年間か知る由もないがの、おじいちゃんやそのまたじいちゃんそのまたもっともっとばあちゃん、彼らは頑張ってきたんじゃ地の塩、そんな彼らの営為により連綿と続いてきた人類の、人類の存亡、カタストロフのがぶり寄りの幕今開かんとす。
 
「こんこん」、とは何と甘美な響きだろう!「こんこん」。およそ女のコのニックネームとして、これほど特異な語感を持ったものもあるまい。何故だろうか。それは溢れる意味の濃密によるのだ。「こんこん」というシニフィアンはとても欲張りである。手元の辞書を見るまでもない、「こんこん」はたくさんのシニフィエを充てられる。想起されたい。しかし驚くべきことに我々は、そんなにも多義的多層的な「こんこん」を、たったある一人の女のコに向かってだけ、投げつけてしまうのだ。ある女のコに「こんこん」と呼びかける喜び!こんな贅沢があっていいのだろうか。呼びかける喜悦法悦。紺野あさ美という、非同一性によって同一化される女のコ。絶えず更新し持続し差異化する女のコ。そんな彼女に「こんこん」と呼びかける。これは実のところ何とも残忍な所業なのだ。排他的な同一化がそこにはある。我々はその暴力に半分気づいて半分気づかない振りをする。そう、この暴力的な側面こそが、「こんこん」という美しい響きの、そしてその美しく響く場としてのこんこんの、更には「こんこん」と紺野あさ美の必然的抱合の、その美しさを十全なものとするのだから。
 
我々は「こんこん」とこんこんに呼びかける。そしてこんこんは現れる。しかし彼女は水着姿、なのである。しかも破局的なそれ。何が破局か。さて彼女のギャップを語ることは特別新しい眼差しによるものではない。そのギャップとは彼女におけるありとあらゆるもの(身体的特徴から内面性などまで)の間のおよそ任意の対照である。ひとえにギャップという見方は人間理解の一つの契機をなすものとして、その利便性から重宝がられる節がある。果たしてこんこんにおいてもその方法論は適応されるのであったが、今度ばかりは対象が悪いのだ、方法の破局である。アロハロこんこんは極度の悪意に満ちていると穿ちたくなる(誰の悪意かはここではまだ等閑に付しておこう)、それ程の性的過多がそこには満ち満ちている。アーメン。つまり、ギャップという見方によるこんこん理解を御破算にさせようとする意図、しかもその破算は、ギャップの不必要な拡大によるギャップの不成立なのである。ギャップがギャップとして捉えきれないこと。たがの外れる経験。分裂の危機、季節。
 
我々はどうしようもない、途方に暮れ路頭に迷う。自暴自棄になる。貧乏ゆすりが止まらない。ある者はその目を潰し外界を遮断し、ある者は自涜に耽ることでこんこんを客体化する。しかし待て待て、待つんだ。我々はそれでも向き合わねばならない、この現実に。このこんこんの両のおっぱいに。この挑発的なウエストラインヒップラインに。どうやってか。我々はヲタとして精一杯気取り、かっこつけるのである。抽象的に言うなら、分裂したまま生き続けるのだ。分裂を分裂のまま受け止める。修行僧のようなヲタライフ。具体的には、こんこんを性的に対象化・客体化せず、さりとてこんこんの全てから目をそらさず、めくるめく駆け巡る想念をそのままにすること、である。これがヲタとしてのかっこつけ方である。人間とか本能とか性とかそういう観念に打ち勝つのだ。ヲタはもう人間一般じゃないんだよ。ああそうさ。これはハロプロレタリアートとしてのヲタの議論に通ずる。ハロプロとヲタの非対称性の議論。頑張れ俺!