about aibon no.1

あいぼんのカワイイ振る舞いを見て
心をキュッと締め付ける、そんな習慣。
彼女はカワイイの天才だと私は断言してはばからない。
この場合の天才は客観規定的な才能だ。
世の中には2種類の才能があると思う。
主観的なそれと客観的なそれである。
2種類は次元が異なるとひとまず考えられる。
単純に言えば、自分が規定する才能と
自分以外の誰かが規定する才能だ。
ただし、前提として、才能という言葉が何だか
とても過剰にもてはやされてるというか意味づけられてる
そんな風潮が今の日本にあることをあげておかなければならない。
であるから、それを勘案して、才能という言葉はそれ程たいした
意味を持たないと考えるのが、ひいては才能全般とのフラットな
付き合いを推し進めるのではなかろうか。
才能は誰にでもありうるし、ある。
勿論そう述べることでつまらない平等主義なんてものを
振りかざすつもりは毛頭ない。というよりはむしろ逆に絶対的な
不平等が示唆される。それはともかく。
私は私の倫理に基づいてあいぼん
カワイイの天才と規定するのである。
じゃああいぼん自身は
主観的に自分の才をそれとして規定していたのだろうか。
この問いは問い自体としては決定的に無効だ。
それは主観的才能の性質による。
誰かが、他の誰かが自身の才能を規定しているかどうかを
問うこと、それ自体には全く意味がない。
それは例えば便宜的だったり手段的ではありうるだろうが。
主観的才能はあくまで主観のものなのであるから。
つまりこうだ、あいぼんが自分のカワイイの才能を規定することと
私があいぼんのカワイイの才能を規定することは全く異質である。
もっと具体的に、
あいぼんが「私はカワイイの才能を持っている」と考えることと
私が「あいぼんはカワイイの才能を持っている」と考えることとは
同じようで全く異なる事態である、ということである。