#7

午前3時前おもむろに脱衣して入浴。
ホットカーペットの上で横臥、断続的な睡眠をとったのだった。
夢と現実が瞼の裏でゆるくスパークし、身体の平衡感覚に軽微な支障をきたす。
暖気と寒気のせめぎ合いで下半身が妙に発汗している。重い。
 
「お風呂に入ってうたいましょーららら」
といったような陽気さは皆無だ。生活は惰性だ。
ミニモニ。に加入する権利がない。
2月頭の午前3時に入浴なんてある種儀式的なイベントだ。
冷たいすのこが足の裏で機械的にきしむ。
 
風呂における惰性の所作の一連を終え、湯船に浸かりはじめると
誰あろうごっちんが狭い窓から浴室に侵入してきた。
ごっちん came in through the bathroom window である。
俺は自分がポール・マッカートニーではないことを
ごっちんが俺の熱狂的なファンではないことを*1
あれこれ頭の中で指差し確認しながら
湯気の中で空間を凹凸させる肢体をぼんやり眺めやる。
彼女の下でもすのこは律儀に音をたてた。
 
お世辞にも広いとは言えない、いや十二分に狭い湯船で差し向かっている。
俺は恥ずかしかった。星野スミレが野比家を訪れた時の
のび太の怒りを初めて心で理解した。
ごっちんが来るなら湯船もっとでかいのにしとけよ!といったような。
それ以前に浴室の狭さはどうしようもない。
 
そしてまた恥ずかしい。膝を抱えても
触れあってしまう近距離にごっちんのヴィーナスな裸体が
ある。水面の光の反射で縦横比は損なわれても。
「ヘソピはずさないんだね」なんてちょっとおさまりの
悪い言葉を投げてしまう。言葉は湯気に拡散して漫画の
吹き出しみたいになった。
 
「横になっていい?」
と言われても何の事だかわからない。
隣に並んでもいいかという意味であることに
隣に並ばれてから理解する。4本の膝が
急な近代化に追われた時代のロシアの火力発電所
煙突みたく無造作に水面から首を出しそびえた。
 
これはどういうことなのか
どういう事態なのかなんて思いもしなかった。何故だろう。
何が起こってもおかしくない世界だからか?
それについては確信を持って肯定しようと思う。
この世界では何でも起こりうる。
そして何が起こってもおかしくないということと
自分が特別な人間ではないという自覚は矛盾しない。
俺は、自分が特別な人間ではない、とかれこれ数千回は
自分に言い聞かせてきたのだ、ある時期を境に。
それがどんな境であるかは人それぞれで、ともかく
そうやって人は社会化の一途をたどるのだろうと思う。
意識の程度の差こそあれども、自分は特別な人間であると信じる
そんな自我の機制はこの社会の低次構成員につきものだ。他の
社会がどうであるかなんて知る由もない。大体どこでも同じなのだろうか。
 
はちゃめちゃな論理が飛躍の羽を伸ばしかけたところで
ごっちんが、そんなの建前でしょ、って顔をしていることに
気づく。ここが風呂でよかったのは、心を見透かされた時に
腋からドロッと出てきた冷や汗の多寡がばれないということだった。
 
「ワタシはアンタに興味があるんだ」
「・・・よくわからないよ」
「正確に言うと、アンタの腸に興味があるの」
ごっちんの額にある汗のつぶ。これは入浴による汗ではない!
急性腸炎ごっちんの汗だ。俺は体の内側に嫌なきしみを感じた。
やはりこれは決定的におかしい事態なのだ。
何が起こってもおかしくない世界にあってもやはり。
ごっちんの側頭部が俺の左肩にトンと乗って
機先を制する。濡れた後れ毛がひるのように。
もう動けるもんか。いやもう動きたくない。
湯の比重がどんどんどんどん変わっていく。
もうダメだ。起こったことは明確に起こったことなのだ。
ぼんやりとした日常に復讐された。足下をすくわれてしまった。
ごっちんの俺の下腹部をまさぐる手の動きは粘つく水流をまとう。
ごっちんはマイダス王。陰毛が死体の毛髪のように凝固する。
俺の下半身は深い麻痺を重ねていく。意識は真逆に覚醒する。
性欲が独立して奥歯がキュッと締め付けられる。
喉がカラカラで気がつけば涙を流している。ごっちんイヤダイヤダ
俺は性交の権利と腸を交換する。ほかほかのはらわた。
本当に彼女はごっちんなのか?
窓の外ではぐるぐる太陽が昇って沈んで
早く早く湯にあてられて気を失いたいのに。

*1:ポールはビートルズ時代浴室にまで侵入してくる熱狂的なファンを題材に曲を作ったという話だ。「She Came in Through the Bathroom Window/Abbey road