オタクの迷い道 (文春文庫)

オタクの迷い道 (文春文庫)

95年9月末からのテレビブロスのコラム集めたものと、対談書き下ろし。
オタクの中の世代区別やってたり、自己規定やってたり。一番興味深かったのはその具体的な生の描写だった。対談にも出てくるけど、行動から言えば、強迫神経症的なところがあるように思った。例えばあれもこれもとお宝を集めて自身の歯止め利かない、というようなところ。で、そんなオタクがそんなオタク自身を笑ってるという図。でも自虐というよりは、そういうメタゲーム、オタクゲームに興じて楽しんでるといった感じ。ネタとベタの適当な乖離のバランス。どれぐらいこのゲームが共有されてたのかわからないけど、真剣にオタク人生で遊ぶ、というような。

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本書が古いということもあるけれど、もとよりそれ以外の他の文脈、この著作以降のオタク言説の文脈について僕は知らないことだらけだ。ただ物品の消費の面だけから言えば、誰も多かれ少なかれオタク的性向があって、ただただ単純に程度の問題という話になるのじゃなかろうか。さまざまなメディアによる分割がオタクにとって負に働いてるのは周知の通り、共有事項と自分には見えるけれど、観測範囲をかんがみるに偏ってる気もする。概念流通によるステレオタイプでヒステリックな即物性が、そういった負の事象に切実な悲惨さを加えることに感情的になってしまうところもある。概念の流通性は高いけれど、固定の度合いも高くて、一度固まると、流動性が全く無くなってしまう。ヒステリーは遊び、余裕のなさそのものであり、ハードな排除、スケープゴートが構造的な必然性を持っているという考え方もあると思う。いたずらにヒステリーなのではなくなるべくしてなってるという風に。
著者は一番若い世代のオタクをひとまず「消費」という特徴・傾向によって規定してる。根っこのない消費のように映るということらしい。そもそも消費がポップであること、ポップが消費であることは根を持たないことで成り立つ。この場合のポップは小文字で再帰的で無時間的で無根拠的で相対的で刹那的で、などと言える。良し悪しがどうこうより、消費社会や記号情報社会、テクノロジーの社会がそこに住まうものに少なからず課するところのもので、今更の話、三周ぐらいした話だろう。頑固一徹に生きられないということではなく、そういう風に生きること自体、あるいはその可能不可能自体が壊れてる、とでも言えるか。なのにか、だからこそか、ネタとベタが乖離することなくくっついて離れない。若い世代においては、オタクであることのアイデンティティとやらが死活的になる。そういう風に本書を読んで考えた。

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著者のいうところの第一世代かそれ以前のオタクが、僕の想像してたところのオタクで、それはマニアでコレクターなのだけど、ストイシズムの精神そのもの。本書にはその理想の極みという人物のエピソードが出てくる。で、それと対照するに僕は自分のことオタクだとは全く思わないし、そもそも自己規定、アイデンティファイ自体が面倒くさいもので、そうでありながら、ふと会った他人はきっと僕のことをオタクだと思うんだろうなあと想像すると面白い。