http://d.hatena.ne.jp/alta/20070929
 
濱田マリがポンポポンポポンキッキーズ

ピーピピピピーピーカーソーもー
ダービーンーチもー
いいかどうかは
自分で決める
 
「ピピカソ

とあっけらかんに唄っていた。
当時ミドルティーンエイジャーだったはずの僕は
マリはわかってるかわかってないかでいえば、わかってる方の女ぞと、
ひとり口の端で笑うこましゃくれであった。
 

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幸か不幸か今はそれほど無邪気でない。
 
「感性」「センス」は極度に個人化/個体化してしまっているように見える。
 
「僕」「ピカソの絵」「好き」
 
あるいは
 
「僕」「ピカソの絵」「いいと思う」
 
というおよそ一般的な価値の言明において、「僕」に付されるアクセントは、「ピカソの絵」にも、「好き」「いいと思う」にも勝るとも劣らない強烈なものとなっている。例えば200年前だとこの力点のバランスはどうだったか?というと、僕は史実としては知らないのだけれど、偉い人はこれはいい、あれはいいと価値付けできても、偉くない人=一般人、下々のものは価値付けなんて恐れ多い、お上の仰せのままに、あるいは価値付けに興味の持ちようがない、そういう主体ではない、といった事態であったのではないだろうか、と想像する。偉い人の価値をそれより偉くない人が否定すると、はりつけやら市中引き回しやらされる、というのは極端だけど、価値付けする主体は本当に命をかけなければならなかったのではなかろうか、と。
つまり、「僕が価値付ける」ことの構成と、「ピカソの絵(作品)」の構成を、ひとまず分断的に考えてみて、前者の構成に、大雑把に言うに当時の社会的な秩序、構成がそのまま大きく練りこまれていたのだ、という認識の妥当性が問題なのである。ここでは主体的な構成(僕、価値付け)とそれとは別の客体的な構成(作品)の有機的連関の可能性をあえて無視している。また後者の構成それ自体についても分析を保留している。
「僕が価値付ける」ことを表象するに、「感性」や「センス」という言葉はとても便利だ。大胆に飛躍して、「僕」が「感性」で、「センス」である、という事態が最早到来しているのではないかと、それらの所有格の消滅を予示したくなるというものだ。その裏づけはやはり、「僕の価値付け」に対する社会的な秩序の関与にあるけれども、現代の社会的秩序に関して、あるいはその主体に対する構成的な性格に関して何がしか言おうとしても、僕の知識では到底カヴァーできるものでないので、その契機として一つだけ特に提示してみるならば、やはりテクノロジーという側面について、ということになるのだ。そして具体的に何を指し示すかというと、インターネットテクノロジーである。
テクノロジーについて、過大評価するにしても、過小評価するにしても、とりわけ見過ごせないと思われるのは、それが社会の一側面として確実に機能し、私たち(心理的自我としての、主体としての、構成員としての等等)を構成するという事態である。これは無論根本的には唯物論的な思考であり、そのような考え方自体の問題というものを常ならず自己言及的に追わねばならないことはいうまでもない、と一応予防線を張っておく。
さて、個人の「感性」「センス」については、皮相的な相対主義、多様性などといった説明概念によってかまびすしく喧伝されている昨今である。インターネットテクノロジーはそれらの概念を余すところなく縦横無尽に展開しているように見える。これが冒頭のつぶやきにひとまず繋がるわけであるけれども、もう少し続けてみると、加速度的テクノロジーは、個人化/個体化の究極的推し進めを終点目標にしているわけではない、という事に思い及んでもまったく不思議でない。
では、そのような細分、分断、また縫合、統合(反動的に見える自律的な一極化などがそうではないか?)の無限的連続、その次には何が起こるのか?インターネットテクノロジーは二進法の情報を今まで一体どれぐらい伝送しているのだろう、などという感慨とは裏腹に、その猛威が私たちの「主体」を犯しているとしたらどうだろう。「感性」「センス」に対応するのは二進法の情報に還元されるものであり、どこまでも流通するものである。それらのスピードに個人は、個体は、主体は追いつかないのではないか。「僕」が「感性」で「センス」であったのに、逆転して「感性」が「センス」が「僕」になった。そしてそれら「感性」「センス」は「情報」である。この言い方では未だ詩的な印象(これが詩的であるならば、だが)をしか与え得ないかもしれない。情報が圧倒的に先行的に流通し、その属性に、タグに「僕」「私」は転落する。テクノロジーは「僕」の「センス」を「感性」を騙り取る。「主体」を騙り取る。そこでは「僕」は皮膜のとても薄い、その割りにやけに大きい不気味に不釣合いな風船のようになる。「僕」は一見肥大して、強固になったように見える(全能感ってこういうものだろうか)、が実はテクノロジーの裸の王様でしかない。いや、王様ならまだしも、存在の危機というと、どうだろう、扇情的に過ぎるだろうか。
大分暗いトーンに酔ってしまったけれども、以上は実にテクノロジーの肯定でも否定でもない。大体テクノロジーによる主体の管理、消失などは今に言われはじめたことではない。ただ一つ、このような認識において、「僕」が戦略的に「僕」であるためのヒントは、「僕はメディアであり、それ以上のものでもそれ以下のものでもない」と宣言して(別にしなくてもいいけど)、情報の媒介者として無限に情報を媒介し続ける、ということに逆説的にあらわれる。つまり「僕」は「僕」でなくていい、というとてもポジティブな明るい放棄がそこでは要求されるわけだ。これはただの理屈である。
 

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というわけでaltaさんのお話からはとにかく脱線したので、また改めて継がせていただきます。僕はインディーズの話や、音楽の価値についての話がしたかったのですが、つい興奮してしまったのです。