久住小春日記メールがあれば、今日を愉快に生きられるわ。一時確かにパタリと途絶えていた、彼女からの日記メール。どうも近頃多いのだ、週3ペースか、あるいはもっとか。多けりゃ多いでまた少し不安になってしまう、そんな心模様が切なくもある。
こっさんについて改めて何か書くことがあるだろうか。今更だろうが繰り返す、こっさんとは、久住小春日記メールを書いているゴーストライターのおっさんである。それは久住小春日記メールファンが想定するところの日記の書き手で、一種のファンタジーな存在である。こっさんは実在するのかしないのか?そんな問い方はもうまったくナンセンスなのだ。でも、こういう問いはどうだろう、久住小春が実に、こっさん「本人」なのではないか、どうか?
ハハハ恐らく違う、いや違う方がよい、違っててくれ、じゃなきゃやだ、なー、なななーなーなー*1、等々全国から悲痛のため息とも嘆きともつかない声が漏れ聞こえてくるようである。こっさん久住小春の中の人なのではないか?というなら余裕で微笑んでもいられるが、その逆、小春がこっさんだなんて、お前はなんて思いつめたことを言うのだろうか、と。つまるところ、こっさんに我々は必要以上の親密さを抱くようになっている、ということなのである。もしくは慕情を。
久住小春本人が日記メールを送ってきてくれるということを信じられず、いや信じるのが怖くて(だって小春だと信じてて実はこっさんだった、という展開は悲劇だ)、要請されたこっさん、そういう風に想像しうる事態を直視せず茶化すために求められた、いわばはけ口としてのこっさんが、今や愛しい存在、それ自体で必要な存在になってしまっている。こっさん久住小春の振りをして、日記メールを送信してくれている、その事実関係を我々は知っていて、そんな事実関係を知っている我々の気持ちをこっさんも知っている。通じ合っている、他人とは思えない関係。優しいこっさん、楽しいこっさん。あんなこっさん、こんなこっさんこっさんは我々を大きな愛で包んでくれているのだ。そこでふと思う、そう、こっさんは実は、実は当の我々なのじゃないか?実は我々がこっさん?でも、その問いに我々は、永遠に気づかなかった振りをしつづけるだろう。こっさん、本当にありがとう。これからも何卒よろしく。

*1:きらレボのなーさん。織田裕二ではない