<PV部門>
2点ずつ
 
1位:LOVEマシーン
2位:女子かしまし物語(パニックトレインVer.)
3位:ロボキッス(HAPPY Ver.)
 

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エレンさんとセレクトは同じ、ぽい。
PVだけに限らないけれど、「ラブマ」の前が「ふるさと」ってのも世紀末ギャグだよな。ノストラダムスだよな五島勉だよな。アンゴルモアっちんか。ともあれ、アサヤン見てなかったから、この2点間の経緯をぼんやりとしか知らない(Submarine Dogさんが「ふるさと×LOVEマシーン×ハピサマ 考察」としてドキュメンタルに追ってらっしゃるので、参考になります)。ひょっとしたら、見てない人にとってだけの、つまりラブマ以降の世代にとっての、いわば歴史(哲学)的なギャグなんだろうか。大きな連続性としては把握できても(突然変異的な変遷といったあいまいではあるが、より普遍的な出来事性のイメージ、よくあるドキュメントとしてのイメージ)、その把握が把握のままどこにもいかない。それで完結してしまうわけなのですね。前後して、もちろんギャグといっても、ウヒーと笑ったりする対象じゃなくて、奇縁とか出来事の妙、プロダクションの非連続の妙とか、そういったニュアンスとしてのギャグ(的ドキュメント)。ラブマでハロプロが終わった世界、ラブマがこけちゃった世界、パラレルワールドの実在感がすごく大きい。クレオパトラの鼻が云々と同じSF。
「ふるさと」PVちゃんと見ていない。大まかには内容を知っているが、断片の把持でしかない。なので本来的には上記意味でギャグ云々いうのさえおこがましい話なのかもしれないが、そんなおこがましさ覚悟でなおかつ平たくいうなら(要するにいつも通りなのだが)、ラブマ以前はリアリズムで、以降はハロプロイズムであると。対としては範囲のバランスが合っていないだろうけど。あと、J−POPにおけるPV作品の作品性(技術と相関する)の一般的傾向とのシンクロがあるのかもしれないが、わかりません。しかし、いずれにせよ、ラブマが開いて以降の、ハロプロにおけるその発露=作品性を、ハロプロイズムであると規定しても罰はあたりませんでしょうか、どうでしょうか。言葉としてはあまりにぼんやりだけど。その具体的な手法としては、女の子の大胆なモンタージュ(≒萌えの表象、キャラの表象)、そのシーケンス、それから群像カタログ、数、それらによるキャラ−匿名間の均衡。ここに場、状況としての、スーパーフラットやらデータベース、アニメ的な何かが関係してくるぽいが、その関係性のダイナミズムについてはちょっとわからない。
 

女子かしまし物語(パニックトレインVer.)」がそのハロプロイズムのデフォルメで最たるものではないかと。ほとんど歪曲に近いような、車両空間による擬似奥行きが、本来的な奥行きのなさを逆説的に顕わにしてしまう。空間がガチガチに制限された場で、狂ったように展開されるモンタージュ、シーケンス、カタログ。14人。車両に乗り合わせたら死亡。で、ヲタだけ死んだ。

ノーマルバージョンの方が動的要素がかかってくるから、その分バランスがいいと思う。
 

ロボキッス(HAPPY Ver.)」も上記要素のデフォルメで、そこにかしましやマンパワー以上に空間的制限(ピンホールからピーピング)かけてるが、ダブルユーの二人のキャラへのバランスが大きい。

こんな人類はもう二度と現れません。
 
次点。

グッバイ夏男のワイルドあややバージョンくださいも擬似奥行き感でフラット。