ダブルユー写真集「50W(フィフティ・ダブルユー)」

ダブルユー写真集「50W(フィフティ・ダブルユー)」

こんな二人は歴史にもう現れえない、とは、歴史主義者の断末魔。だが、その絶命の咆哮の奥底にくすぶるであろう、辻ちゃん加護ちゃん辻加護、ぶりんこうんこ、ダブルユー等々の微細な、でありながらさりとて放置することかなわない概念的齟齬に対する、イラつき、神経質を理解してあげる慈しみは、喪主のつとめか、坊主の業か。ああ、ダブルユーという名付けは、いかにも非発作的で瞬発力に欠ける、のろまでした南無阿弥陀仏。絶間なく入れ違う焼香客、葬列に混じって叫ぶ、ミレニアムをずらすぞ、耶蘇VS打武留友。つまりダブルユーミレニアムですが。香典ドロボーは当の彼女たちです。待てー(加護さんが来るののの、加護サスペンス劇場のあいぼん、という先駆的体験がオーバーラップ)
 
辻加護どっちがどっちかわからないことは、幸せです、と断じる。双子じゃないのに双子みたいの連鎖、ドッペルゲンガーアソシエーションに加担しませんか?自分が分裂的に現在することに耐えられる頭脳の持ち主になれたらいいのになあ。とある一瞬、我々が辻加護そのものでした、から。異母無卵性シャム双生児の同時。ある者は辻ちゃんに、ある者は加護ちゃんに、という流れは、人間の脳の機能性に照らして極めて合理的であるとひとまずいってよい。繰り返しになるようだが、なぜなら、同時的にかつ同質的に二つの別のポイントに存在することは不可能だから。
 
この写真集に映っているのは、人間じゃない、キャラ(クター)、その極北です。のの(八重歯の頃)と、あいぼん(私はゾウデス。)。とでも言わなければ、理性はともかく、悟性は破産します。人間=キャラクター説は人間=アイドル説より過激な綜合的判断なのです。けれども、彼女たちは恐ろしく狡猾なまでに人間のフリをしますから、まったく厄介なのです。
 
エンディングが象徴的である。それは「見ること・見られること」の循環思想です。アンティーク・オートクチュールドールハウスに息づく二人。転じて、その二人を外から見ている二人。転じて、その二人を外から見ている二人を内から見ている二人の視線のカット。困難はここにおいてあらわになる、我々は三つの次元を強いられることになる。つまり、
 
1.二人であるところの我=ダブルユー
2.二人ではありえないところの我=ダブルユー
3.それらの我を統合的に把捉せんとする我=ダブルユー
 
の回路に放り込まれ、1,2,3の手続きをエンドレスリピートしつづけるということ。
 

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写真は光に対する暴力だ。これは時間の権利思想である。しかし、写真を見る二重性において、片方(写真)は止まっていて、片方(写真を見るもの)は動いていると考えることは間違いなのではないか?光は、つまり写真の光は、限りなく弱くなるにせよ、永遠に乱反射するとしたら(それはやはり見るものを待つかもしれないが)、やはり写真においても時間は流れているということになるだろう。
 

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「W3:faithful」
「どうにもとまらない/チョイ悪デビル」
をよろしく出してくださいませ。