桃ちゃんピンポイントに強いなあ、と。いつだかのフレッツでのさゆとの絡みはあんまりピンとこなかったのだけど、あれはまあ舞台としての番組自体がイレギュラーだったってのもあろう。GAKI・KAMEでの二人との絡みはなかなかガツガツとしてた。これはベリ外ハロメンとの絡みのはなしという観点。
もっと広げてみて、メディアの特性があることから、それら特性に起因するところの得手不得手があったりするのだろうなと思うし、また、それに関してはヲタによって、大きな声で小さな声でいろいろな角度で話し続けられてきたはずだから、今更だろう。広義の意味でのメディアとしての、ダイレクトなコンサ、握手会など、または本来的なそれである、内外テレビメディア、ラジオなど。区分としての、映像の次元、音の次元。どこで強いのか弱いのか。
 
ちょっとまた角度変えてみる、ピンポイントの強さは、チャンスに対する強さなんだろうなあ、と思う。桃ちゃんは僕にハイアベレージだ。これは桃ちゃんの問題意識のありどころという観点であったり、そうだ、まず、いわゆる「嗣永プロ」と呼ばれるところ、累々と物語られてきたところの彼女の姿勢、印象、在りようをそのアベレージヒッターの要因として紡ぐことが、つまり新たに物語ることができるだろう。さて、昨日のあいりポケモームービーでうへぇって腰砕けた僕には、あれも実にピンポイントだったわけで、充分なとっかかり・きっかけになったのだった。あいりちゃんがどういう子か現時点でほとんど知らない(つまるところ物語が「ない」、あるいはそれを知らない、白紙だったといえる)が、これからは追うかもしれない。
 
そういうきっかけはきっかけとしてあるわけではない。事後的に「きっかけ」とするだけだ。夢の中ででてきたあの子が妙に気になってきた、とかもその類だろう。勿論宝くじは買わなきゃ当たらないわけだが。
物語を紡ぐものとしてできることはきっと、その事後的なきっかけを大事にすることだけということになるだろう。そして、彼女たちもやはりそんなきっかけをコントロールすることは決定的にはできない、でも彼女たちは無我に働きかける。そしてそれを包括する世界の世界性は協同を、その内実としての、物語のあるいは萌えの共犯を、私たちに重ねさせることになる。そこに起こるのはアクシデントだ。交通事故が楽しいのはサッカーだけじゃない。