別に何ということもない。ただちょっとハロプロが好きなだけで、その中にはよすぃこがいて、みんながいて。ハロプロ的状況。その中のよすぃこ的状況。
よすぃこ悲しんでいるだろうなあと想うと当然悲しくなる。
それと同じように、新聞の中ののがメッシと並んだら勝手に得意げになる。かおりんがヒロインになると聞いて嬉しくなる。圭ちゃんの交友関係やっぱすげー!とか。少し拡大された日常。生活。
芸能界とかアイドルとかファンとか、言葉はどうしても窮屈だったり手に負えなかったりする。それでも死ぬまでは言葉で喋る(しかない)。例えば、語りえぬものについて沈黙するということ。言葉が存在の家であるということ。全て物事はあきらかであり、その上でやはり誤解誤読し続けるということ。言葉にまつわる私たちの運動。
よすぃこは友達か?知り合い?赤の他人?関係をそういった役割や類的概念で規定するということの反対極に、自己を自己の関係で規定したキェルケゴールがいるようにみえる。彼には神(他者)が決定的に重要であったとしても。そして方法としての逆説はその己の有効性をすら破壊してしまうにしても。
何にも媒介されない個というナイーブな観念。裸のよすぃこと裸の誰かが向き合うことの可能の如何。コンサートに行く人。手紙を書く人。ネットに言葉を残す人。特別何もしない人。そんなどこかにいながら同時にどこでもない場所で、よっすぃ〜、俺は何も言わない。ただ抱きしめて泣く、というか何故か俺だけ泣いてる、「おまえが哀しみに酔ってんじゃねー!情けない!」とよすぃこにどつかれる、という一連を想像した。あるいは、よっすぃ〜、今の心の状態はいつか去るまでは去らない、もしくは去ったように見えるまでは去らない、それはよっすぃ〜にも誰にもコントロールできない、いわばなるようにしかならない、でもそれはよっすぃ〜の責任として倫理的に問われ続ける、これは不条理だが、あなたはその責任を果たしなさい、と偉そうに理屈を述べて「うるへー」とやはりどつかれる、という一連を。うんなんだよすぃこに元気になってもらいたいという欲望のあらわれか?
わからなくても言葉にするということを怖がらない勇気を、あるいは言葉にするという意味において黙る勇気を。
「わからない」という事はとても怖い。不気味だ。それは根源的かもしれない。「わからない」ことが誰かに対して何か現実的な脅威を持つ、ということとはまた別であるとしたい。
「わたしはわたしがわからない」。
でも「わからないから 生きているの」「わからないから 楽しいのよ」。
楽しい?本当に?誰にも何もわからない。それでも「わからないから 生きているの」「わからないから 楽しいのよ」。「教えないで 教えないで 自分で探すから」。きっとずっとわからないが、それでもあなたはきっとずっと探す。