「銀河ヒッチハイクガイド」見るのあきらめた。また機会あれば。
たまたま先日原作の方を読み終わってたので。
宇宙戦争」からこの映画につなぐのは内容的にとてもシニカルだ。
プログラム組んだWOWOWは楽しいやつだなと思う。
地球防衛軍」をプレイしたくなった。
 

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「寒いから冬だもん!〜どうもこうもないっすよミキティ〜」を聴いて
きっとこういう風にみきてぃにたしなめられたいのだ、と。
どうもこうもないっすよミキティって本人に告げたいのだ。
そしてたしなめられる。
 
お姉さんみきてぃは微笑ましい存在だ。彼女が教育番組で
子供達とギリギリでやりあうのを、脇にヒヤ汗かきながら眺めたい。
あるいは俺たち皆子供の格好して、鼻水たらしながら
半ズボンとかシャツとかをピチピチに着こなしてですね、
みき先生を如何に怒らせるか、先生に如何に怒られるかという
そういうやりとりをハロモニで企画してくれないかしらと思いました。
 

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亀井絵里は変態だと思う。
変態的価値をものの見事に体現している。
「発汗CM」が念頭にあるけれども、それだけではない。
「発汗−」の変態は多分に操作された、押し付けられたものである。
ここではガキさんとの対照がヒントとなる。
つまり、ガキさんとは対照的な変態が亀子において発露していることを
確認するところからことは始まるのだ。
何故同じコスチュームを着てる人間の片方を殊更「変態」と言いたくなるのか?
 
ところで、ハロプロに変人(へんな人)はたくさんいる。
変人は女の子の他者性を幾分穏当に言い換えたもの、ともいえよう。
じゃあ変態(的価値)とは何であるのか。どう分析できるのか。
そこには過剰ともいえるセクシュアリティがあるのではないだろうかと
想像する。これは総じて「萌え」の問題として引き受けられるだろうか。
以上は変態的価値を、客体を分析することで追い詰めるアプローチである。
 
もう一つの切り口は、見る側楽しむ側が変態なのか
亀子が変態なのか、その共同作業なのか、というような
二区分に基づく作業にあるだろう。
 
俺は亀子にきっとこう告白するさ、
「俺は絵里が好きだ、そして絵里の変態も同じぐらい好きだ」と。
そういえば今日俺は夢の中でごっちんとベロチューしたのだった。
だからこう言う方が亀子にはよりぐっと来るに違いない、
「今日夢の中でごっちんとベロチューしたんだ。それで絵里、
俺は絵里が好きだ、そして絵里の変態も同じぐらい好きだ」