歩いてる(初回生産限定盤)(DVD付)

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好きだけど面白くはない、って言い方は言い訳じみてるかなあ。←言い訳
例えばごっちんの新曲と娘。のそれとは単純に比較できないかもしれないけれど、つまり、ハロプロ物語の理念的には、両者の音楽媒体としての歴史(物語)が違うからって話で比較しにくいけれど、ごっちんの新曲は娘。のそれと比べて(僕にとって)面白かったとあえて言いたいのです。それはひとえに(僕が)「知らない」「知らなかった」音楽だから。
 
ハロプロ物語の理念」なんて書いたけど要はヲタの「ハロプロ史観」を理念的なものとみなしてるだけです。そしてそれはどうしても内在的でしょう。まぁこれは勢い音楽自体の価値の自律の話になって、うーむ一つ目の脱線だ。といっても個人的に、「ヲタ−一般」という構えが何だかしっくりこないものとして感じられるようになってしまってるから、それらに即応する形で「内在−外在」という風に二極的に考えるのが辛いかななんて思ったり。
話戻して、具体的には、今年のごっちんの軌跡と娘。のそれは当然違う、ごっちんは去年からこう流れてきました、娘。はこうこうこうでしたとか、線的なものにおいての一つの楽曲という現れを点としてみることを、ヲタは方法論的にとっているということ、だけどそんなに大層な話でもないだろうかなぁ、多分ヲタはその方法を自明なものとして多かれ少なかれ無意識的に楽曲の良し悪しの判断に繰り込んでいる。それでヲタ自身が物語の媒体になると。これは二つ目の脱線だけれども、ネットというテクノロジーがそのヲタ媒体による物語の再生産を、相互的な伝播を可能にしてるという話で、そうそうそれで更に前後するけれど、物語一般の拡大解釈がここにはあって、それは本来的に制作側に与えられるものであるが、一意ではなくて、ヲタという無数の媒質により物語化される、解釈され脚色され誤解されエトセトラエトセトラ・・・というプロセスによるものの総体である、と。僕はもういっそのこと極端に物語一元論にしてしまいたいとまで考えるのですが、それは何でかというと「萌え」をどうするかの、後手ではあれヲタ側の理性的な解決のための打算ゆえなのです。うおおおちゃんとまとめてから書けよお前とすっかり酔っ払った愛ちゃんがうるさいのでひとまず筆をおこう、愛ちゃんと晩酌しようと思ったのですが、きりが悪いので前後した部分から続けます、上記踏まえてそういう累々とした物語の再生産が、ハロプロ音楽を物語る時にも勿論働くので、例えば恒例のお楽しみイベント・ハロプロ楽曲大賞やっほーいってなるんじゃありませんでしょうか。再生産が再生産を呼ぶというね。
というわけでですね、ハロプロ音楽を点で、点のみでつまり客観的音楽性とあえてここで言いますが、そういうもので語ることはヲタ史観からは困難である、と。何だ今更当たり前のことじゃないかあ、とここまで書いて思いました。いやちょっと待って、振り返ると、多分、点で、つまりその客観的な音楽性のみでハロプロ音楽を語ることができてた時期はあったのだろうと思う。これはノスタルジーか?はたまた幻想か?流行という広範な客観性、音楽という一領域におけるファッションという客観性、それらに規定される音楽性をここでは想定しています。ただ、今現在ではおいそれとはいかない、それにはきっと色々な原因、状況の違いがあるのだろうけれど、今やヲタ史観においては、物語性と客観的音楽性がすっかり乖離しちゃってるか、ないまぜになっちゃってるかで、結果としては同じことなのである、と意味なく見得を切ってみた。
 
で、うまいことid:ealのエレンさんのお話と交差できたらなあと夢みながら、続きはこの文章の最初に戻るというところからはじめたいなあ、できるかなあと思いました。
 
たかしゃいとゆっくりお酒飲むのが俺の夢。
おやちゃみ