東京について漫然と

「東京コンプレックス」ってなんだろう、って思いました。
井の頭公園の落ち葉のたまりで木漏れ日にあたりながら。
おっ
ちょっとロマンチックなんじゃないの。
 
一般に「東京コンプレックス」とは
「東京」以外の地域(特に関西圏、更には特に大阪)に住む者が抱く、
「東京」に対する負の感情と考えてよろしいでしょうか。
具体的には「東京」への嫉妬だったり、貶め、ひけめなどや、
「東京」と比べたら僕たちなんて、、みたいなすねだったり
はては、意図的無関心、あるいはぼんやりながらも強靭な憧れなども
含んでいいかも。夢の都大東京、みたいな憧れ。
 
それでこういうコンプレックスを実際抱いている人がいるかどうかには
私は興味を持ってません。昔は結構いたかもしれないし、今もある年齢以上の人は
強くそれを持っているかもしれない、と根拠なくただ想像するだけです。
 
さて、「東京」にはある理念があると思います。
というよりは「東京」がすでに理念なのかもしれない。
それは、およそありとあらゆる意味で「日本」の「中心」であるということに、
集約できるのでは、と思います。そしてそれには事実の裏づけがある。
まず人が絶対的に多いということ、そしてその人たちが多かれ少なかれ
自分が「東京」に住む「東京人」であるという自意識を持っているということ。
つまりそれはその人たちが「東京」という理念のもとにあるということです。
そのような状況下でたくさんの「交換」がそれこそ無限に行なわれるわけで。
この場合の「交換」は間人間的営為の全てを含みますが、より具体的には
社会的交換、経済的交換などのことです。おい、具体例少ないぞ。
そのようなほとんど無限の交換がなされる場所が、
「日本」の「中心」であると考えることは、そんなに間違ってないと
思うのですがどうでしょうか。
これは事実的側面からいっているわけですが、勿論先にいった意味、
つまり理念としての「東京」、そういう理念的側面(観念的側面)も
大きな意味を持っていることは重ねますまい。
 
派生して、「東京人」はみんないい意味でかっこつけだと思います。余談。
 
先の話に戻りますが、「東京コンプレックス」は
大別して2種類あるように思うのです。
一つは「東京人」だけが持つ、自意識としての「東京コンプレックス」。
その内容は先に書いたとおりなので略しますが、要はそういう東京人の自意識を
私がただ恣意的にコンプレックスと呼ぶだけです。何だそれ。
或る種強迫観念みたいなものかもしれない。じゃあコンプレックスとは
いえないかもね。ダメじゃん。
もう一つは「東京人」以外が持つ、幻想としての「東京コンプレックス」。
幻想といっても、それは厳然とあるでしょう。つまり
それは幻想としてだが確実にある、ということです。
じゃあ何故幻想というのか。
それは「東京」に本当に触れると解消してしまうからです。
逆にいうと、「東京」に本当に触れない限りでそれは成立する、
ということです。つまり直接的に「東京」とは何か、ということですね。
 
かくえらそうにいう筆者であるところの私は本当に「東京」に
触れえたのでしょうか。わかりません。わかりませんが、
最後にこういわせてください。
 
「神戸にいても圭ちゃんと友達になれません、でも東京でなら
 あるいは友達になれるかも!」
 
私はどうやら「東京」に触れること叶わなかったようです。