観念的思弁的こんこん論

その現象から

 こんこんはタイラントです。タイラントのボディです。暴君だよ暴君。ローマのネロとか。つまり極めて圧政的なボディだよ。逆らう奴はあのおっぱいに挟まれたり太ももに挟まれたりします。却って反逆したくなるよね。国民総反逆者。まぁそういうマジカルドリーマーな戯言はどうでもいい。
 さてオントロギッシュにこんこんを語ることの可能についてはひとまず置いておくにしても彼女のタイラントでグラマラスなボディについてだけ言及することに関し何のためらいが必要でしょうか。必要でない。と言いましてもこれとても今更な議論であることには違いありませんしこれをあえて進めて一市井の徒が強弁の誹りを免れない事態に陥ることをこんこんは許してくれるだろうかと言えば、こんこんはきっとノンのサインを出すだろう、何と不敬虔な行いだろうか!
 

こんこんをあえて規定する

 しかし彼女の存在の規定性の一つとして「もてあまし」を揚げることだけは許されたい。彼女は「たくさん」をもてあましている(ように見える)。それはボディであるし、知性であるし、かわいさであるし、ひとえに遍くありとあらゆる全体であり、それは前述のようにいくつかの要素として捉えられる。
 ここでこういう事言うのもどうかと思うけれど言う、この文章は彼女の才能の質量を何ら絶対化するものではない。一般論であるというよりは勿論特殊な話なわけだが、こんこんの存在から一般的人間学的、存在論的な考察が得られないとも限らないわけです。つまりこんこん(特殊)⇔存在論(一般)という往還という意図も少なからずあるわけです。正当化としての余談。
 ここ数ヶ月のこんこんはその「もてあまし」の自覚的な対象化プロジェクトではないだろうか。己のボディ、知性、かわいさなどが一体いかほどのものかということの自覚的対象化。ここにおいて二つの側面を強調したい。
 まず、この一連の対象化はその克服を目指すものなどではない。といっても、一般論的な観点から、「もてあまし」を克服することのナンセンスをあげつらう、というのではなく、あくまで彼女の内的な発展的動機にその焦点を置いているのです。つまり、こんこんが自覚的にそれを対象化することの純粋性ならびに、才能の「もてあまし」一般、才能をもてあますこと一般の意味の純粋性の確保をもくろんでいる。
 もう一つは、こんこんを享受できる機会が絶対的にいや増すということ。その姿はポジティブな意味で、「余裕」だったり「自信」という概念で捉えられるようになるだろう。
 個人的な心情としては、そんな彼女を見ることは喜びであるに間違いないけれども、また同時に一抹の寂しさをも仰がせてくれるわけで、極めて分裂的です。
 

結び

最後にこの「もてあまし」という規定性は彼女のより本来的な(そうだろうと想像する)「努力」という規定性を無碍にするものではない。逆にこの二つは密接な関連を持つものであり、ここには更なる考究の余地があろう。
「赤点」という評価が逆説的に響きだしてもうどれぐらい経つのでしょうか。「赤点」=「赤点でない」という逆説。これは♂による実に周到な前フリだったのではなかろうかと穿ちたくもなるというもの。
 繰り返しまして、私は一傍観者で、こんこんの起源からのそれではないし、彼女における努力の歴史を多くは知らないですから、我知らず彼女のそれを、つまり「努力」という規定性を幾分軽んじているかのような文言を連ねてしまっているかもしれない(勿論出来る限りの配慮のもとでしょうがなく)、けれどそういうわけでは決してないと言い訳じみたエピローグでした。