長文になる予感は外れる

「主観」という言葉で自分の価値を正当化する事態は
やけっぱちでデカダンを決め込んだ文化産業の多様な表れに
そぐうものだ。
相対主義はおよそ己の根拠を正せないまま
そのイラツキを、文化を享受する側の「主観」に押し付けてしまう。
それゆえ「主観」は「主観」を俎上に乗せることで
つまり自己を名乗ることで「客観」を前提しているが
そこは真空地帯で、空間としての「主観」しかない。