ヲタの主体の系譜学

何を正しいとするか、が問題である。
 
何かが正しいと決まれば、ドミノ崩し、全ては演繹的に決定される。
 
「ヲタの主体性」がどの次元の要素であれ、同様である。
 
例えば
ハロプロアイデンティティが本質としてあれば
正しい演繹の元、ヲタのあり方は必然的に決定される。
 
繰り返すが
ヲタの主体的あり方が先でもいい。
 
ヲタの感性・肉体等をアプリオリなものとして
肯定すれば、ハロプロに求められるものは自ずと決定される。
 
以上は一つの倫理だ。
同時にそれ自体理念であると言えよう。
我々はどの道同定から逃れ出る存在なのだから。